ファイナンス 2023年9月号 No.694
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九蔵町田町中央銀座連雀町スズラン十字屋跡市役所跡モントレ新町市役所中山道街道筋ダイエー跡高島屋ニチイ→OPA七十四→茂木→横浜跡関口眼鏡群馬商業↓安田↓旧みずほスカイビル跡群馬音楽センター大手前通第二跡足利群馬髙島屋ストア跡小泉呉服店跡緑屋跡本町藤五跡慈光通り安国寺跡(出所)筆者作成図1 市街図 ファイナンス 2023 Sep. 37十字屋(2代目)高崎店(高崎市連雀町4[86]、1964年(昭和39年)10月29日開店[86]-1976年(昭和51年)2月[8])売り場面積約469m2[86]緑屋高崎店1967年(昭和42年)開店-1976年(昭和51年)閉店。八木橋八木橋高崎店」が目抜き通り(現・あら町)に創業。四階は食堂、屋上はこども遊園地になっていて、顧客獲得に大きな役割を果たした。ニチイ1976ダイエー1979年ー1994年行を経て大正12年(1923)に安田銀行に吸収された。戦後の富士銀行、現在のみずほ銀行である。地元資本の銀行には明治後期の高崎積善銀行、高崎銀行、大正に入って創業した上毛貯蔵銀行があった。その後、高崎本店の有力行を設立する機運が高まる。統合の受け皿行として大正8年(1919)に上州銀行が設立され、地元3行がこれに合流した。当初の本店は九蔵町に置かれたが、大正11年(1922)に田町に本店が新築された。昭和7年(1932)、1県1行主義が背景となって群馬大同銀行に統合する。現在の群馬銀行である。現在、同じ場所には群馬銀行高崎田町支店と第四北越銀行の高崎支店の共同店舗がある。共同店舗には他に群馬銀行の高崎北、高崎西の各支店と高崎駅前出張所が同居している。田町にある足利銀行高崎支店も大正10年(1921)の進出だ。当時は本店が栃木県宇都宮市ではなく足利市にあった。出店以来同じ場所で営業している。中央銀座から連雀町へ戦後、昭和30年(1955)の最高路線価地点は中央銀座だった。昭和35年(1960)は「寄合町関口眼鏡店前中央銀座通」とある。中央銀座は県下で最も賑わっていた商店街で、最高路線価は前橋を上回っていた。関口眼鏡店は現在も営業を続けている。昭和43年(1968)の最高路線価地点は「連雀町小泉呉服店前」だった。小泉呉服店は中山道と大手前通が交差する連雀町交差点の北西にあった。この交差点には昭和6年(1931)から高島屋ストアがあった。戦後は界隈に当時の大型店やチェーン店が集まってきた。当時の高崎の中心軸は中山道で高崎駅前は郊外然としていた。高崎駅は明治17年(1884)、日本鉄道の駅として開業した。同じ年に前橋駅まで延伸している。現在の高崎線で、当初からわが国戦略商品の生糸を横浜に輸送する使命を帯びていた。翌年、赤羽駅から現在の山手線をたどり品川駅に至る「品川線」が開通。品川駅の連絡で横浜駅までつながった。これを境に生糸の輸送が利根川舟運から鉄道にシフトしていく。駅ができた場所は高崎城下町の外側で、今のような商業地になる前の駅西口一帯は倉庫はじめ物流関係の施設や旅館が散在していた。昭和37年(1962)、地元の商店主が協同組合方式で2階建の寄合百貨店「中央デパート」を設立した。その後、9階建の高崎スカイビルに建て替えられる。最上階の回転展望喫茶室が新名所になった。昭和39年(1964)10月には5階建の藤五百貨店がオープンした。高崎で初めての百貨店だ。戦後、中央銀座で創業した洋服生地販売「藤五商店」が前身である。伊勢丹との縁があり、百貨店の立ち上げに際して3.3%の株式を持ってもらうなどしている。開店翌年には伊勢丹の共同仕入機構の十一店会に加盟した。この1か月前、前橋にも前三百貨店がオープンしていた。藤五、前三ともに群馬県に本格的な百貨店がないことが創業動機の1つで、設立に地元の商工会議所が関わっていること

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