ファイナンス 2023年9月号 No.694
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第43回 「群馬県高崎市」第43回 「群馬県高崎市」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D 36 ファイナンス 2023 Sep.生糸を介した高崎と横浜のつながり前橋の回でも説明したが群馬県は横浜と縁が深い。近代の戦略商品である生糸の産地と輸出港の関係だ。そのキーマンは、高崎の九く蔵ぞう町まちに生まれ、横浜で生糸貿易を起こし財を成した野沢屋こと茂木惣兵衛である。明治8年(1875)、群馬県で初めての銀行が開業した。第二国立銀行の高崎支店である。その前年、横浜為替会社を基に設立された2番目の国立銀行だ。製糸業のための銀行で、横浜の大手売込商の原善三郎が頭取、茂木惣兵衛が副頭取だった。産地の製糸工場が、積出港のある横浜の売込商に宛てた荷為替を組む。銀行はそれを買い取ることで産地に資金を供給していた。その後、第二国立銀行は国立銀行制度の満了に伴い第二銀行となった。横浜に本店を構え、高崎以外では前橋、東京、横須賀に支店を出した。県都の前橋市に対し高崎市は「商都」と呼ばれる。地元の「上毛かるた」で「関東と信越つなぐ高崎市」と詠まれる交通の要衝だ。わが国の東西幹線の1つの中山道の宿駅で、ここから長岡に通じる三国街道に分岐する。三国街道は越後国、信濃国、上野国の3つの地域にちなむ三国峠に由来する。高崎城の背後を流れる利根川水系の烏からす川がわを5kmほど下ったところに倉賀野河岸がある。鉄道開通前は高崎と江戸・東京を結ぶ大動脈だった利根川舟運の発着点だった。明治17年(1884)には第七十四国立銀行の高崎支店ができた。明治11年(1878)に、第二国立銀行と同じく横浜で設立された銀行で、明治14年(1881)に茂木惣兵衛が第2代頭取となっていた。その後、茂木惣兵衛は明治28年(1895)に横浜で茂木銀行を設立。翌年、第七十四銀行高崎支店の営業を引き取り茂木銀行高崎支店とした。ただし同支店は大正7年(1918)に第七十四銀行の後継の七十四銀行に復帰する。七十四銀行が茂木銀行を吸収したからだ。ところがその2年後、第1次世界大戦の反動恐慌のあおりで七十四銀行が破綻。受け皿銀行として設立された横浜興信銀行に引き継がれた。それで、七十四銀行高崎支店は横浜興信銀行の支店となった。昭和2年(1927)には第二銀行も破綻。第二銀行の営業も横浜興信銀行に引き継がれている。当時の銀行は九蔵町や田町に集積していた。明治41年(1908)、伊勢崎に本店を構える群馬商業銀行が現在の田町交差点の北西角に高崎支店を出店した。安田銀行の系列で、大正5年(1916)の明治商業銀田町の銀行街横浜興信銀行は現在の横浜銀行である。歴史をたどれば、前身銀行の系譜を継ぐ横浜銀行の支店のうち最も古いものが高崎支店となる。高崎支店は昭和53年(1978)に連れん雀じゃく町ちょうに移転したが、それまでは前身の第七十四国立銀行が九蔵町に開店以来、94年にわたって同じ場所で営業していた。第二国立銀行は中山道に沿ってその隣にあった。中山道は高崎の街を¬かね字に貫く。街道に沿って町名が付され、東西に伸びる本もと町まちから南に曲がり九蔵町、田た町まち、連雀町、新あら町まちと続く。鉄道が開通する1年前、明治16年(1883)の統計によれば当時の最高地価の場所は田町だった。1反平均地価は317円で、前橋の桑町の252円より高かった。明治36年(1903)に本町に移ったが、大正元年には再び田町が最高地価になった。その後、確認できる範囲では昭和5年(1930)まで田町が最も高かった。ちなみにこの間の最高地価は前橋と同水準だった。車社会で健闘する駅前の商都車社会で健闘する駅前の商都路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史

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