松山環状線図2 広域図(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成’73-旧フジショッピング’79-旧ダイエー南松山店ジョー・プラ16,669㎡スクエアフジグラン22,185㎡’95-旧ジャスコシティ松山イオンスタイル松山18,353㎡’08-エミフルMASAKI店舗面積59,268㎡三津浜図1市街図の範囲朝生田地区松山IC 58 ファイナンス 2023 Jul.街の4店が協同組合銀天街ショッピングビルを設立、「ラブリープラザ」を立ち上げ、核店舗として全国チェーンのニチイを誘致した。同じ年、銀天街の松山市駅に近い場所にフジが出店した。広島を地盤に繊維問屋を営む十和が始めたスーパーで、瀬戸内海を挟んで隣県の愛媛県でチェーン展開を図った。銀天街の店舗は宇和島店に続く2号店だった。昭和45年(1970)にはダイエーが2号店を千舟町に出店した。その翌年には松山市駅に市内2店目の百貨店、いよてつそごうがオープンした。郊外路線網を擁する伊予鉄道のターミナル、松山市駅の集客力も強く、昭和56年(1981)に最高路線価地点が「湊町4丁目小林呉服店前銀天街」になった。大街道との角地と松山市駅を結ぶ銀天街のほぼ中間地点である。11年後の平成4年(1992)には松山市駅の向かい側の「湊町5丁目日切ビル前通り」に移った。その後20年超にわたって駅前が最高路線価地点となる。松山環状線他の地方都市と同様に、松山市もロードサイドの発展が見られる。そのさきがけは昭和48年(1973)にフジが出店した四国で初めての大型ショッピングセンター、フジショッピングスクエア駅前店だ。駅前とはいえ当地で実質的な駅前は伊予鉄道の松山市駅で、昭和2年(1927)に開業した国鉄松山駅の周辺は戦後も郊外然としていた。平成元年(1989)、に大規模増床し、フジグランとなった。店舗面積は22,185m2である。当地の場合、市街地を大きく囲む形で松山環状線ができた。昭和49年(1974)に南部環状線の一部が完成し、平成11年(1999)に全線開通する。沿線では高速道路ICにつづく砥と部べ道路と交差する朝あ生そ田だ地区が郊外の商業拠点となった。はじめに出店したのが昭和54年(1979)開店のダイエー南松山店である。平成17年(2005)閉店し、入れ替わりで「ジョー・プラ」が入った。店舗面積は16,669m2である。平成7年(1995)にはジャスコシティ松山がオープンした。今のイオンスタイル松山で、店舗面積は18,353m2である。この頃から郊外店が目立って増えてきた。押される形で平成10年(1998)にダイエー千舟町店が閉店。銀天街のニチイは平成9年(1997)にサティ業態に転換したが客足は伸びず平成11年(1999)に撤退。撤退後の店舗はオーナーである協同組合の直営になり「松山銀天街GET!」となった。平成20年(2008)、松山環状線のさらに外側に商圏内最大の店舗面積59,268m2のエミフルMASAKIができた。核店舗はフジグランである。同じ年、大街道を挟んで三越の向かいにあったラフォーレ原宿の松山店が閉店した。ラフォーレ原宿はいづみ松山店が撤退した後、昭和58年(1983)に開店したファッションビルで、三越とともに大街道の二枚看板となっていた。駅前からかつての中心地に街の中心が移動したことは、駅前周辺に集中していた中心街の範囲が拡大した最高路線価地点は35年ぶりに大街道へ平成27年(2015)、最高路線価地点が35年ぶりに「大街道2丁目大街道商店街」となった。この年、ラフォーレ原宿の跡地が再開発され、アエル松山がオープンしている(図4)。下層階が商業施設で上層階がホテルの13階建の複合施設である。最高路線価地点がかつての中心商店街に戻ってきたといえば、高松丸亀町商店街の例がある。地方都市の空洞化が問題となる中、高松も松山も中心街が善戦している。
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