ファイナンス 2023年7月号 No.692
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今治街道本町仲田跡農工跡魚町松前町萱町大街道跡✟ 市役所日銀花園町通り大洲街道図1 市街図(出所)筆者作成ファイナンス 2023 Jul. 57フジグラン路面電車水路跡旧市街地古町駅大丸跡紙屋町市民会館美術館図書館松山市駅札ノ辻城山公園松山城愛媛県庁44丁丁目目旧旧そそごごうういいよよててつつ髙髙島島屋屋小林呉服店跡一番町二番町伊予三番町千舟町銀天街三越唐人町52跡中ノ川大街道駅旧松山駅22丁丁目目あづまや跡11丁丁目目湊湊町町33丁丁目目卍卍がんセンター野球場跡松山中学跡ダイエー跡フジ跡アエルいづみ↓ラフォーレ跡ダイエー跡ニチイ跡⛩⛩時からの商業地であり藩の庇護もあった古町エリアだったが、時代とともに後発の湊町に賑わいが移っていった。伊予鉄道の古町駅が途中駅だったのに対し外側駅が終着駅だったことも奏功した。愛媛県統計書によれば、明治36年(1903)の最高地価は湊町3丁目だった。東西に伸びる湊町のうち松山市駅の面前が湊町5丁目で東に進むにつれ湊町4丁目、3丁目となる。3丁目の東端で、後述する南北のメインストリートの大街道と交差する。東西の湊町と南北の大街道が交差する地点が当時の松山の中心だった。第五十二国立銀行が紙屋町から移転した三番町は外側エリアの中央を東西に貫く道である。その第五十二国立銀行は国立銀行の制度満了後に五十二銀行となった。昭和12年(1937)には本町に本店があった仲田銀行と合併して松山五十二銀行となった。現在の地域一番行の伊予銀行は戦前の一県一行主義の流れで昭和16年(1941)に東予、中予、南予の県内3地域を代表する3行が合併して発足した伊豫合同銀行を前身とする。3行とは中予を代表する松山五十二銀行、明治29年(1896)に発足し東予を地盤とする今治商業銀行、そして南予を地盤とし八幡浜に本店を構える豫よ洲しゅう銀行である。豫洲銀行の源流は第二十九国立銀行に遡る。設立は第五十二国立銀行より半年ほど早い明治11年(1878)3月15日で、伊予銀行はこの日を創業記念日としている。伊豫合同銀行は3行合併10周目の昭和26年(1951)に伊豫銀行に改称。翌年、本店を現在地に新築した。常用漢字の伊予銀行となったのは平成2年(1990)である。昭和36年(1961)、「大街道2丁目松菊堂店前大街道通」が最高路線価地点となった。街なかの南北のメインストリートが大街道で、2丁目には三越松山店があった。三越は大街道商店街の北端にあって路面電車が走る大通りに面する。目の前にある大街道停留場は遡れば道後鉄道のターミナルだった。ターミナル時代の駅は大通りを挟んで向かい側のいよてつ会館の場所にあった。三越が開店したのは昭和21年(1946)。高松に続く四国2店目の三越で、松山初の都市型百貨店だった。その後、大街道には昭和39年(1964)にダイエーの四国1号店が進出する。昭和43年(1968)には大街道を挟んで三越の向かい側に、広島地盤のスーパー「いづみ」(現イズミ)が出店した。三越とそれに続く大型店の出店で水をあけられたかのように見えた湊町も対抗策を打ち出していった。昭和28年(1953)、県内初の全蓋アーケードが架けられた。屋根が銀色だったことにちなみ「銀天街」と名付けられ、「横のデパート」と呼ばれた。昭和43年(1968)には商店三越開店と大街道昭和30年(1955)の最高路線価地点は大街道1丁目だった。5年後に現れる地点名は「あづまや履物店前」で、湊町3丁目との交差点の北西角にあった。住所こそ大街道だがこの時点では同じ角地の東西辺から南北辺に変わった程度の変化だった。商店街は湊町3丁目と同じく銀天街に属する場所だ。

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