ファイナンス 2023年7月号 No.692
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第41回 「愛媛県松山市」第41回 「愛媛県松山市」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D大街道の復活はデータ重視の歩くまちづくりから大街道の復活はデータ重視の歩くまちづくりから 56 ファイナンス 2023 Jul.城下町以来の中心地は古町エリアの本町夏目金之助も利用したであろう伊予鉄道は明治21年(1888)に三津駅と松山駅の間で開通、四国で初めての鉄道だった。松山駅は翌年外側駅に改称する。金之助が松山に赴任した明治28年には2社目の道後鉄道が開業している。伊予鉄道の途中駅の古こ町まち駅と接続し、城の北面を迂回し道後温泉に至る路線と、現在の道後温泉駅である道後駅から松山駅(現・大街道駅)に至る路線があった。古町駅は小説に登場する。坊っちゃんが宿直部屋から抜け出して温泉に行き、そ松山の偉人といえば俳聖子規こと正岡升のぼる。その盟友の漱石こと夏目金之助も松山を全国に知らしめた功労者だ。型破りな新任教師の青春譚「坊っちゃん」で活写された街のイメージが今も息づいている。作中、坊っちゃんは汽船から艀に移り三津浜に上陸。伊予鉄道の三み津つ駅から外と側がわ駅(現・松山市駅)に向かう。「乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない」。マッチ箱のような汽車とはドイツ(バイエルン王国)製の軽便汽車で、客車1両の定員は12人とミニサイズだった。現在も外観を模した「坊っちゃん列車」が市内を走っている。「坊っちゃん」と同じく夏目金之助も旧制中学で英語教師をしている。明治28年(1895)、和暦と同じ28歳のとき松山中学に赴任した。小説に「松山」の記載はないが、フィクションとはいえ、臨場感ある書きぶりは金之助が己の目で見た風景を写し取ったためだろう。ちなみに金之助が赴任した当時の松山中学は今の愛媛県庁の向かい側にあった。坊っちゃんは車(人力車)を雇ったが、松山市駅から歩けば12分である。の帰りに「古町の停車場」まで戻る場面だ。道後鉄道の道後駅から乗ったのだろう。伊予鉄道と道後鉄道の駅があった古町は、少なくとも明治前半までは松山の中心だった。古町は慶長7年(1602)、領主加藤嘉明が松山城下町を造成したときに商人地に定められたエリアだ。その中心が札の辻で、平山城である松山城の平城部分(三の丸または堀之内)の北西角にある。今治街道、大須街道その他の街道の起点で松山市の道路元標にもなった。札の辻から西に伸びる道沿いの町が紙かみやちょう屋町で、松山初の銀行である第五十二国立銀行があった。明治11年(1878)の創業だが、3年後に外と側がわエリアの三番町に移転する。札の辻を起点に北に伸びる道沿いの町が本ほん町まちである。もっとも手前が1丁目で、愛媛県統計書によれば現存する最古の記録である明治17年(1884)時点で最高地価の場所だった。ここは松山初の百貨店が開店した場所でもある。大正6~7年頃(1917~18)に開店した大丸百貨店で、昭和4年(1929)頃までの約10年と短い営業期間だったが、木造4階建の洋風建築で店内にはエレベーターもあった。百貨店大手の大丸と同じ名前だが関係はない。鉄道開通が後押しした湊町の繁栄坊っちゃんの時代に現在の松山市駅は外側駅といったが、駅名の「外側」は松山城の南側一帯を指す。ここには古町と並び立つ商人町の湊町があった。江戸時代の末期に中ノ川の舟運が開かれたが、その後背地だったことから「湊町」と呼ばれた。舟運は古町から始まるルートもあり、両者は城の西郊で合流して三津浜に至った。もっとも水量が安定せず、松山市史によれば交通の大動脈とまではいかなかったようだ。造成路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史

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