*16) 包括保証保険制度自体は、昭和31年の信用保険法改正により導入されていたところ、その仕組みを原則とするというものである。昭和財政史の解説が、非常に端的なので以下引用したい。なお、導入当時は、保険契約先が中小企業信用保険特別会計につき、契約先は政府となる。「包括保証保険制度は、昭和31年の「中小企業信用保険法」の改正(昭和31年法律第30号、31年3月26日公布、4月1日施行)によって新設されたもので、信用保証協会が、債務の保証を行うと同時にその保証につき自動的に政府との間に保険関係が成立するものである。包括保険制度の実施以前は保証協会が債務を保証した場合、政府との間で保険関係を成立させるかどうかは保証協会の判断であり(逆選択制)、よりリスクの高い債務について保険関係が結ばれることになり、それが中小企業信用保険特別会計の赤字の原因の1つとされていた。」ちなみに、当時の包括保証保険制度の内容は、昭和31年3月8日の衆議院商工委員会における質疑で確認できる。○永井委員(永井勝次郎議員) 包括保証保険、これは従来とどういうふうに違い、どういう効果があるのか、具体的に御説明を願いたい。○佐久政府委員(中小企業庁長官) 従来の小口保証保険というのは、いわゆる保険逆選択制と普通言っておりますが、非常に信用力の弱いものについて保険をかけていく、何と申しますか、悪い企業について保険をかけていくという、選択の方法に余地を残しておるのでありますが、今度の場合は、一定のワクを国と契約いたしますと、二十万円以下の金額の貸し出しを行なった場合には、自動的に保険がかかっていくという、こういう点で非常に手続が簡易でありますのと、一般的に広くその恩恵を受けるという点が有利であろう、こういうふうに思うわけであります。*17) 戦後の国民金融公庫から以降、一般化する「公庫」という名称は、当時のGHQが、戦前の「金庫」という名称を嫌ったことを踏まえ、戦後新たに作られた用語である。具体的には、国民金融公庫法案の検討過程において、当初は「国民金融公団」が構想され、それが「国民金融公社」へと修正されていき、さらに公社案から修正する際、金融機関としての経営が求められる中で、公社制度とはなじみ難いとのことで、戦前の「金庫」と名称を統合し「公庫」という用語が誕生した。このあたりの経緯について、国民金融公庫五十年史は、下記のとおり記している。「役職員の身分など、公社制度にはなじみ難い面がみられる一方で、金融機関という業務の特殊性を明確にすべきとの指摘もなされ、新たな名称が検討された。結局、名称については、公社と金庫を折衷した「公庫」に落ち着いた。」この「公団」や「公社」という用語が、金融機関としての経営上なじみ難いのではないか、という意見が出た背景までは明示的に記した資料が見たらないものの、この新機関が検討された当時の「公団」及び「公社」がどのようなものとして位置づけられていたかは、■住にて、次のように指摘されている。○公団「…公団は、国策会社や営団のような官民協力とは全く異なる、公的独占の論理を持つ行政手法として登場した…」○公社「…いかなる論理を持つ行政手法として「Public Corporation」を具体化するかではなく、「Public Corporation」として存在すること、そのこと自体に意味がおかれた…こうして公共性と企業性を併せ持つはずの「Public Corporation」は換骨奪胎され、現業官庁の実質を維持した(つまり企業性を軽視した)公社が誕生することになった(日本国有鉄道・日本専売公社)。…公団がGHQの指令に基づく公的独占の論理を持つ行政手法であったのに対し、公社は特定の論理を持たない状況対応的なものであった。」中小企業信用保険公庫が成立する昭和33年時点において、上記のような「公団」「公社」という用語についてどこまで厳密な議論があったかは不透明であるものの、金融機関としての経営が求められる中で、中小企業信用保険特別会計を「公庫」という組織形態としたことは、合理性のある判断であったと言えるのではないかと思われる。ファイナンス 2023 Jul. 49信用補完制度の解説(4)まとめの包括保証保険*16に付保する方針とするとし、中小企業信用保険特別会計の個別保証保険は廃止するとしている。…そして機構については、中小企業信用保険特別会計を発展的に解消し、なんらかの新機構を設立することを政府において検討することが望ましい」との意見であった。そして、上記の新機構については、通商産業省と大蔵省との間で調整が進められた結果、昭和財政史曰く「…大蔵省では新設機関が保険事業のみならず融資事業も行うため、国の強い監督下に置く必要性があると判断…」「…独立性の強い「事業団」の構想もあったが、財政投資額・予算規模から国の相当な監督下に置く必要があるという考え方により「公庫」という形態*17…」とすることとなった。こうして、中小企業信用保険特別会計は廃止されることとなり、法改正を経て、同会計を承継する中小企業信用保険公庫が、昭和33年7月に設置された(中小企業信用保険公庫法(昭和33年法律第93号))。ここに、信用保証協会が行った保証を公庫保険がバックファイナンスすることで、安定した保証業務を実現するという、現在まで続く日本の信用補完制度が成立したのである。なお、その後の組織変遷も最後に簡単に述べておきたい。中小企業信用保険公庫は、平成11年に発足した中小企業総合事業団に統合されたものの、平成16年に、同事業団が独立行政法人中小企業基盤整備機構に改組されることに併せて信用保険部門は分離し、当時の中小企業金融公庫へ統合された。そして、政策金融改革の中で、信用保険部門を含む中小企業金融公庫は、国民生活金融公庫等と共に、平成20年に「株式会社日本政策金融公庫」として統合され、現在に至っている。このように過去の経緯を紐解くと、日本の信用補完制度は、全くもってその源流を異にする、戦前からの信用保証制度と戦後の信用保険制度が、相互の制度的弱点を補完する形で統合されたものであった。そして、その実施機関に係る組織的な見直し等こそ、時代の趨勢等の中で行われてきたものの、その基本的スキームはこれまで大きく変わること無く、現代まで続いている。3.おわりにさて、ここまで2回に分ける形で述べさせていただいたが、文字通り戦前と戦後という、2つの大きく異
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