ファイナンス 2023年7月号 No.692
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「四八年十二月に、占領軍は経済安定のための九原則を示し、それが四九年度予算において「ドッジ・ライン」として具体化された。これは、「竹馬の脚」(アメリカの援助と日本政府の補助金)を切って国内需要を圧縮させ、それによって一挙にインフレを収束させようとするものである。…ドッジ・ラインの直接の目的はインフレの収束であり、事実それは成功してインフレは四九年度中に一挙におさまることになった。…」式会社日本政策金融公庫国民生活事業の前身の一つである、国民金融公庫である。○松平委員(松平忠久議員) これは吉橋さんにお伺いしたい。先ほどの融資保険の事故率ですが、この融資保険の事故は、この制度が発足した当時とその後において、かなり相違がだんだん出ておるのではなかろうかと思う。私は、信用保険制度かできたとき、そのころは銀行が、とにかくこげつきのようなものをどんどん整理するために、頭がいいから、この制度を悪用したというか活用したというか、そういう向きがあったように思う。その後批判もだんだん出てきて、銀行自体も考えるようになったのではなかろうかと思いますが、その事故率の発生工合と申しますか、最近におけるそういうものを、もし御記憶でもあれば、ちょっと伺っておきたいと思います。○吉橋参考人(全国地方銀行協会常務理事) 融資保険の方の事故率が高いという点は、御指摘の通りでございまして、中小企業庁の方からも、御注意がございますし、また特に特殊な事故率が高いと思われるような金融機関には、融資保険のワクの割当を停止せられまして、内部でも、そういったことのないように注意をいたしております。現在、事故率はどの程度になっているかということは、ちょっと記憶がありませんが、中小企業庁の方からでも……。私、確かな記憶がございません。*7) ドッジラインについては、「1940年体制 さらば戦時経済(増補版)」(野口悠紀雄)にてその目的・結果が端的に纏められている。 *8) なお、こういった状況下において、戦前からの庶民金庫の業務を、事業性資金の供給に事実上特化する形で引き継ぐべく設立されたものが、現在の株*9) 昭和財政史P.194*10) 昭和33年3月25日の衆議院商工委員会においては、次のような質疑がなされている。 (中小企業信用保険法の制定) 46 ファイナンス 2023 Jul.は、国からの喫緊の対応策として登場した政策であった、と言えるのではないかと思われる。では、一体どのような状況下で、どのような形で打ち出されることとなったのだろうか。信用保険制度が登場する背景、それは同じGHQに係るものであっても、よりマクロ的な経済政策と深く結びついていた。昭和23年にGHQが発表した、経済安定9原則(いわゆる「ドッジライン」)に基づき、急激なインフレ対策が行われた結果、昭和24年から25年にかけて、日本経済は大規模不況に見舞われたのである*7。そしてこうした経済状況の中で、とりわけ中小企業者等の資金繰りは深刻化しており、*8それらへの対応策として、当時の通商産業省(中小企業庁)は、新信用保証制度の創設を企図することとなった。50年史によれば、当時の通商産業省(中小企業庁)としては、地方公共団体及び大蔵省にて進められていた戦前からの信用保証協会も含めて、各種制度を検討していたという。そのような中、「…米国議会で発表された「トルーマン教書」で、中小企業貸付に対する保険制度創設の必要性が強調され、これがGHQの説得資料として政府の保険制度構想を推進する」こととなり、結果「通商産業省案の中小企業向中長期合理化資金を貸付ける金融機関の融資を、政府が直接保険する制度」が創設されることとなったのである。このように、信用保険制度は、政府レベルでの包括的な中小企業者等の資金繰り改善策として誕生した。ただし、この保険制度の在り方については、GHQから介入があった。当初の構想は「…信用保険制度を設置し、これに独立の法人格を与え、金融公庫的性格を帯びた政府関係機関として運営*9」するという、まさに現在のような仕組みであったものの、GHQはそれを認めず、特別会計を中小企業庁に置くという条件を提示したのである。この結果、現在の公庫保険にあたる組織は、中小企業信用保険特別会計法(昭和25年法律第265号)に基づく特別会計となり、一方で当該保険の業法として、中小企業信用保険法(昭和25年法律第264号。以下「信用保険法」という。)が制定されるというスキームとなったのであった。(信用保険制度の欠陥)さて、こうして新たに導入された信用保険制度であったが、先に行く末を述べてしまうと、50年史の言を借りれば「施行後1年を経過しても、利用が低調であった」という。さらに、そもそもの制度上にも問題があった。具体的には、当時の信用保険制度は、当該制度を利用するか否か(付保の選択権)を融資する金融機関側が持っていたため、いわゆる逆選択が発生する仕組みになっていた。すなわち、中小企業者等へ融資する民間金融機関にとっては、貸し倒れる可能性が高い融資について信用保険を付ければ損失が保険で埋まるという仕組みになるため、当時の信用保険制度は、本来であればリスクの低い者から高い者まで偏り無く利用される形であるべきなのに、リスクの高い者が選択的に付保されてしまい(逆選択)、非常に事故率が高いものとなってしまった*10のである。加えて、その制度当初こそ、信用保険制度は、長期かつ比較的大口なものを対象層とし、信用保証制度は、短期で比較的小口なものを対象層とする棲み分け

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