ファイナンス 2023年7月号 No.692
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ファイナンス 2023 Jul. 45信用補完制度の解説(信用保証協会法の制定)こうした信用保証制度の存続危機が2度も表面化する一方、中小企業者等への資金繰り支援をどのように具体化してゆくかは、当時喫緊の課題であり、信用保証制度の整備・充実は、それらに係る重要な方策として位置づけられていった。それが政府全体の政策として打ち出されたのは、昭和23年8月、中小企業金融対策要綱においてであった。この要綱(要旨)において「信用保証制度の活用を図ると共に、中小企業自体の信用力、担保力の強化に努める」とされ、これを契機に、地方公共団体を中心とした信用保証協会の設立が進むこととなったのである。そして、こうした動きの中で、大蔵省銀行局では、「信用保証事業法案要綱」(昭和23年8月9日)や「信用保証協会法案要綱」(昭和23年10月25日)といった特別法の制定が模索されるものの、当時のGHQを筆頭とする占領行政下では、具体的な立法措置に至ることはできなかった。こうした中で、昭和27年4月にGHQが撤退すると、信用保証協会側の強い特別法制定の要望も出される中で急速に法制化が進展する。昭和28年6月、信用保証協会法案は国会へ提出され、同年8月10日に公布・施行されたのである。そしてその翌月には、先の事業者団体法は廃止され、ここに信用保証協会は、信用保証協会法を根拠法とする認可法人として、現在の法的地位を確立することとなった。一方、ここまでの経緯を見ても明らかなように、現在の信用補完制度を構成する信用保険制度は、ほぼ同じ時間軸にありながら、信用保証協会(信用保証制度)との関係ではなかなか登場してこない。では、最終的に制度として統合に至る以前、信用保険制度はどのような経緯で成立するに至ったのだろうか。ただ、信用保証協会はここで諦めはしなかった。50年史の記載を引用したい。「…再び東京信用保証協会・田中専務理事は大蔵省銀行局と共に、GHQ当局及び関係機関との折衝を繰り返した。この結果、GHQ・大蔵省・公正取引委員会の三者間に、「信用保証協会法といった特別法が制定されるまでの間、現状を黙認する」という同意が交わされた。…」戦後のGHQの方針があると言っても、ここでも改めて「黙認」という実益を勝ち取ったのである。とはいえ、何でも黙認させていれば解決されるわけでもないので、ここで先人たちは知恵を絞った。具体的には、信用保証協会を現行の「社団法人」から「財団法人」に転換させることにより、信用保証協会を、一定の目的(信用保証)のために財産を運用する団体とし、事業者団体法のいう事業者団体に該当させず、また同法の精神にも反させない、というようにしてしまったのである。この点は、50年史の記載が端的なので、以下に引用したい。「解決策として浮上したのが、信用保証協会の財団法人化である。財団法人に改組する理由として、(1)社団法人としての信用保証協会は、会員(金融機関等事業者)総会により目的や活動を変容することが出来、事業者団体の不当な支配や活動を防止する事業者団体法の精神に反する、(2)財団法人であれば、一定の目的(この場合は、中小企業者に対する保証)のために財産を運用することとなるので、協会は事業者団体に該当しない、などの点が重視された。…法的には社団法人を財団法人に改組は出来ないので、付帯条件をつけて社団法人を解散し、所定の手続を経て財産法人の設立登記を完了、この新法人を受け皿に債権・債務、従業員、業務の一切を譲渡して、事業を再開した。」もっとも、この時点で設立されていた40の信用保証協会のうち、実際に財団法人へと改組できたのは25協会であり、円滑な財団法人への移行が難しいケースもある中、残る15協会は、特別法(信用保証協会法)制定への動きを注視することとなった。信用保証制度は、ここに来て、民法に基づく法人を用いるという点で、制度上の限界が見え始めていたのであった。(2) 国が民間金融機関に対し保険する信用保険制度が登場(特別会計からスタート)信用保証制度とほぼ同じ時間軸にありながら、全く異なる経緯で成立してきた信用保険制度は、そもそもどのような政策であったのだろうか。この点は、誤解を恐れずに言うなれば、前者が、地方公共団体レベルから積み上がってきた政策であったのに対し、後者

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