*1) こうした戦時期の国家総動員体制が背景となって整備された代表的な機関としては、現在の株式会社日本政策金融公庫国民生活事業の前身でもある庶民金庫が挙げられよう。庶民金庫に係る詳細背景については、本稿第1回の脚注13を参照いただければ幸いである。また、従来からその政策的な必要性は認められつつも実現に時間を要していたものが、急速に実現した例としては、庶民金庫法のほかに、同法と同じ国会で成立した、恩給金庫法(昭和13年法律第57号)が挙げられる。こちらについては、拙稿「恩給担保貸付の原則廃止にあたって」を参照いただければ幸いである。*2) 50年史によれば次のようにある。 「…中小商工業金融問題に最も関心の深かった日本興業銀行が、民間諸機関の中小商工業対策を研究するために、昭和10年に欧州へ視察団を派遣し、ドイツのベルリン、ハンブルグの保証機関を紹介した。」*3) 50年史P.5*4) 当時の民法上の規定は下記のとおり。 ○民法(抄) (公益法人の設立)第 34条 学術、技芸、慈善、祭祀、宗教その他の公益に関する社団又は財団であって、営利を目的としないものは、主務官庁の許可を得て、法人とすることができる。ファイナンス 2023 Jul. 43信用補完制度の解説は極めて少ないであろう。しかしながら、信用補完制度のうち信用保証制度の黎明期には、国レベルでは当時の大蔵省が深く関わっていた。(信用保証協会の誕生)そもそも、信用保証制度は、現在においても中小企業者等の資金繰り支援において重要な位置を占めているところ、その根本的な理由は、中小企業者等が大企業等に比べれば、資金調達能力として不利であるという、一見にして当たり前の点にある。ただ、これは著しい経済成長を果たした後の日本経済であっても解決されるわけではないことからも分かるように、戦前期の日本においては、一層深刻な事象でもあった。この様相を、50年史は「信用保証制度創設前の中小企業金融の実情は、金融機関の中小企業向資金量の不足、中小企業金融のコスト高及び中小企業者の担保・信用力の脆弱さに起因し、円滑さを欠いて」いたと端的に述べている。では、こうした事態に対し如何にして対応してゆこうとしたのか。実は、日本の政策金融(とりわけ中小企業者等に係る金融)は、昭和初期における国家総動員体制に向けた変革等を推進力としつつ、現在の源流となるような機関や制度が整備されてきた部分もある*1ところ、信用保証制度に関して言えば、前回(第1回)述べたとおり、地方公共団体がその推進役であった。具体的には、当時の東京、京都及び大阪市といった大都市圏において立案され、実行に移されていったのである。このうち、最初に信用保証協会を設けたのは、当時の東京市であった。東京市は、当時のドイツが導入していた保証制度を参考に検討を進めた*2結果「中小企業を苦境に追い込んでいるのは、主として物的信用力の欠如に原因があり、これを打開するためには対人信用を主とする有力な機関を設置する以外に方策はない」という結論に達し*3、最終的に当時の東京府との共同事業として実施することとしたのである。こうして、昭和12年、当時の民法(明治29年法律第89号)*4に基づく社団法人として商工大臣の認可を得た、東京信用保証協会が成立した。その後、京都は昭和14年、大阪市は昭和17年にそれぞれ保証協会(京都信用保証協会及び大阪市信用保証協会)を設立させることとなるものの、戦況が悪化する中、戦前に成立した信用保証協会はこの3協会に留まることとなった。(戦後の再出発とGHQ)こうして戦前に誕生した信用保証協会であったものの、戦後どのような道筋を辿ったのか。まず結論から述べれば、終戦により、その存続は極めて危うい状況におかれることとなった。具体的には、米国を中心とする連合国最高司令官総司令部(以下「GHQ」という。なお、歴史研究的には、民政については「SCAP」とすることが一般的のようであるが、ここでは一般的な名称として、GHQを使用することとしたい。)の影響に翻弄されることとなる。具体的には2度危機があった。まず1度目の危機は、GHQによる占領政策当初に訪れた。占領政策当初、GHQは一般論としても知られているように、戦時機関や特殊性を持つ機関については、即時閉鎖の方向性を持っていた。ただ、その方向性は非常に極端なものであり、例えば、今では東京メトロで知られる東京地下鉄株式会社の前身たる「帝都高速度交通営団」も、戦後すぐには、他の営団等と並べて
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