ファイナンス 2023年6月号 No.691
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プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)ファイナンス 2023 Jun. 57図6 修景が進む本町の町なみル倉敷である。平成14年(2002)にダイエーが閉店。3年後の平成17年(2005)5月には三越倉敷店が撤退した。三越跡はしばらく空きビルになっていたが、平成20年(2008)3月、駅前の天満屋が移転してきた。他方、天満屋移転後の駅前商店街は集客の核を失い、シャッターを閉めた店が目立つようになった。平成23年(2011)、倉敷駅北口にアリオ倉敷と三井アウトレットパーク倉敷が開業した。元は倉敷紡績万寿工場があった場所で、工場撤退後は平成9年(1997)7月から平成20年(2008)12月までテーマパーク「倉敷チボリ公園」があった。駅前には違いないが元の中心街のある南口の反対側であり、郊外立地に近い。町なみ保存の源流を辿ると、「倉敷をドイツの歴史的都市ローテンブルグのようにしたい」が持論の大原總一郎に行きつく。大原總一郎は孫三郎の長男である。總一郎は倉敷で最も早い保存事業に関係している。昭和23年(1948)、大原家が所有していた江戸時代後期の米倉をリノベーションして倉敷民藝館を整備した。昭和43年(1968)、倉敷市伝統美観保存条例が制定された。これを機に定められたのが「倉敷川畔美観地区」である。倉敷美観地区の登場だ。歴史的町なみ保存が制度化された。新幹線の岡山延伸もあいまって倉敷を訪れる観光客が増えてきた。特に若い女性の人気を集め、当時「アンノン族」と呼ばれた個人客が多く訪れた。宿泊ニーズの受け皿として期待されたのが倉敷アイビースクエアである。操業停止していた倉敷紡績の本社工場をリノベーションしたホテルで、昭和48年(1973)の開業だ。敷地内には体験工房やセレクトショップ、企業博物館の倉紡記念館がある。施設名の由来でもある赤レンガの建物を覆っている蔦(アイビー)は元々空調目的で植えられたものだ。平成19年(2007)には経済産業省から「近代化産業遺産」の認定を受けた。「倉敷」といえば大原美術館や倉敷民芸館がある倉敷川沿いの風景を浮かべる人が多い。一方、本町を中心に旧街道の町なみ再生も着々と進んでいる(図6)。40年観光施設への再生駅前や郊外の発展の一方で長らく時間が止まったかのように見えた本町界隈だが、その古い町なみが強みとなり、いまや屈指の観光名所になっている。以上前から町家再生に取り組んできたのが、倉敷建築工房の楢なら村むら徹氏である。旧街道に沿って楢村氏が手掛けた案件がかなりの密度で点在する。はじめは点だった町家の再生が、その進捗につれ面的な歴史的町なみに育ってきた。再生案件の1つが「林源十郎商店」である。元は、大原孫三郎と石井十次を引き合わせた林源十郎が経営していた林薬品の店舗兼事務所だった。本館、旧住居、蔵および離れの4棟をリノベーションし、セレクトショップやカフェ、レストランが複数入居する「林源十郎商店 倉敷生活デザインマーケット」になった。屋上には展望テラスがあり美観地区の町なみが眺められる。ふりかえると、近代のインフラから現代の観光コンテンツまで、倉敷のまちづくりに関する多くは大原孫三郎の取り組みに源流を見出せる。もっとも孫三郎自身はまったくの聖人君子というわけではなく、本業は多数の従業員を率いる経営者であり、大富豪なりの毀誉褒貶もあったようだ。ただ、筆者は孫三郎が日記に「すべての罪は金に依りて犯せるにあらずや」と書いていることに目を留めた。ルカ福音書の次の一節と結びついたからだ。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。今なお倉敷の人々の尊敬を集める大原孫三郎だが、この一節はその生涯を端的に示している。倉敷の街の歴史が興味深いのは、そうした孫三郎の情熱と後生への連鎖をうかがい知ることができるからだ。

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