ファイナンス 2023年6月号 No.691
60/78

(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成倉敷IC’11-アリオ倉敷/三井アウトレットパーク倉敷店舗面積38,000㎡’80-市役所’79-旧サブリーナタウンゆめタウン倉敷店15,138㎡早島IC’99-イオンモール倉敷59,351㎡’81-ジャスコシティ倉敷跡11,363㎡岡山バイパス笹沖地区図5 広域図図4 倉敷中央病院た。近代的な新館が林立する現在も、場所や形を変えながら同院のシンボルとして引き継がれている。大原奨学会を設立し有為の若者を支援してきた大原孫三郎は市内に教育施設を残している。例えば県立倉敷商業高校は、孫三郎が夜間学校として始めた倉敷商業補習学校が前身だ。研究機関に目を転じれば、岡山大学資源植物科学研究所は大原奨農会農業研究所が起源である。大原家は2,500人の小作人を持つ地主だった。傘下小作人の所得向上ひいては家業でもある農業の生産性向上を目指し、研究所と試験農場を整備した。岡山名産の白桃やマスカットも研究成果の1つだ。他にも大原家が始めた公共施設がある。まずは保育園、岡山県初の保育園「若竹の園」は孫三郎の妻の大原寿恵子(スエ)が発起人だ。次に公民館だが、大原美術館の隣の庭園「新渓園」は元々大原家の別邸だ。大正時代に倉敷町に寄附され、敷地の和風建築が公民館として使われていた。今でも倉敷市観光課が所管する公の施設だ。電燈事業を起こしたのも大原孫三郎である。孫三郎は「街」そのものも作っている。大正8年(1919)に倉敷住宅土地株式会社を設立。鶴形山の北の旭町一帯を買収し、新市街地を造成した。市役所その他の公共機関も誘致している。大原孫三郎が残した街の遺産で最も知られているのは、昭和5年(1930)に開館した大原美術館だろう。所蔵作品ではエル・グレコ「受胎告知」が特に有名だ。大原奨学会で以前から支援していた1歳下の児島虎次郎の熱意に応え、彼に依頼して名画を集めさせた。児島は昭和4年(1929)に47歳で世を去る。崇敬する石井十次の長女を嫁がせるほどの親友でもあった児島の遺志を汲み、彼が集めた名画を展示する常設館を建てた。ギリシャ神殿風の本館も薬師寺主計の設計による。児島と同じく彼も大原奨学生だった。駅前の発展とその後の郊外化明治大正を通じて本町が倉敷の中心だったが、戦後は駅前に賑わいが移った。倉敷に鉄道が到達したのは明治24年(1891)4月である。現在の山陽本線は民間資金で敷設された。社名を山陽鉄道といった。筆者の手元資料で確認できる最古の最高路線価は昭和44年(1969)のもので場所は倉敷駅前の「栄町スーパーみとう」である。同じ通りには岡山市に本店を構える百貨店「天満屋」の支店があった。天満屋の場所には昭和28年(1953)から地元資本のつるや百貨店があった。その後、菊屋百貨店に引き継がれ、昭和36年(1961)に天満屋が資本参加する。昭和39年(1964)に天満屋倉敷店となり、増築を経て昭和42年(1967)に新店舗がオープンした。昭和45年(1970)には駅の北側にダイエーが開店。昭和55年(1980)には駅前一帯が再開発され、駅前広場とその両側のビル2棟ができた。その1つに三越が入居した。一方、市街地の外縁を迂回する南北のバイパスに沿って郊外店が増え、中心街の南の笹沖地区に新たな集積ができてきた。郊外流出はなお進み、とりわけ中心商業に大きな影響をもたらしたのが平成11年(1999)、クラレの工場跡地に店舗面積は59,351m2でオープンしたイオン倉敷ショッピングセンター、現在のイオンモー 56 ファイナンス 2023 Jun.

元のページ  ../index.html#60

このブックを見る