ファイナンス 2023年6月号 No.691
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✟ 市民会館倉敷川図3 市街図(出所)筆者作成。なお町名は旧町名ファイナンス 2023 Jun. 55岡山合同貯蓄跡街道筋水路跡美観地区旧三越天満屋中国安田跡旧林薬局新渓園若竹の園保育園みとう天満屋跡商業高校跡旧市役所Ⅲ美術館大大原原美美術術館館旭町郵便局倉紡本店→市役所Ⅱ跡鶴形山公園旧倉敷紡績阿智神社旧第一合同旧市役所Ⅰ倉敷民芸館アイビースクエア倉敷中央病院倉紡寄宿舎跡東町大原孫三郎の情熱倉敷を語るに大原孫三郎は外せない。第一合同銀行、中国銀行の初代頭取で、倉敷紡績の2代目社長である。大原孫三郎が残した街のインフラ大工場を経営する大原孫三郎が心血を注いだのは福大原孫三郎は東京専門学校(現在の早稲田大学)を中退する。在籍時は講義にほとんど出ず高利貸しから借財して大尽遊びに耽っていた。父親の孝四郎は激怒し孫三郎を倉敷に呼び戻す。無聊を託っていた18歳の夏、倉敷に来演した岡山孤児院主催のチャリティーコンサートに行った。幕間で登壇していたのが、15歳年長で岡山孤児院を主宰していた石井十じゅう次じである。この、明治32年(1899)7月の出会いが後の改心のきっかけとなった。3ヵ月後、町内で薬種問屋を営む林源十郎のつてを辿り孫三郎は岡山孤児院を訪問する。林源十郎の尽力もあり孫三郎は石井への心服を深め、2年後の3月には岡山孤児院の基金管理者を引き受けるに至る。石井は孫三郎の縁談を進め、孫三郎は11月に林源十郎夫妻の媒酌で石井スエ(後に“寿恵子”。同性だが石井十次と縁戚関係なし)と所帯を持った。このとき21歳だった。身持ちとともに行動指針が定まったのはこの頃だ。翌年3月の日記にこう記している。「この資産を与えられたのは、余のためにあらず、世界のためである。余はその世界に与えられた金をもって、神の御心に依り働くものである」。孫三郎は25歳のとき洗礼を受け正式にキリスト教の信徒となった。日本基督教団の倉敷教会が発足したのはその翌年の明治39年(1906)である。洗礼を授けた溝手文太郎が初代牧師で設立時の信徒は孫三郎を含む25名だった。孫三郎が倉敷紡績の社長と倉敷銀行の頭取を引き継いだ年でもある。このとき26歳、いよいよ孫三郎の活動が本格化する。祉・衛生事業だった。工場寄宿舎で腸チフスの集団感染が発生した件で先代が引責辞任した経緯もあり、工場内の労働衛生に取り組んだ。まずは今でいう貧困ビジネスの「飯場制度」を止め、採用や福利厚生を直営化した。万年床状態だった大部屋寄宿舎を廃止し、定員5人の戸建に分かれて住む「分散式家族的寄宿舎」を整備した。後年、倉敷駅北口の万ま寿す工場内に倉敷労働科学研究所を立ち上げる。ここでは学術誌「労働科学研究」を発刊し研究成果を公表していた。現在は大原記念労働科学研究所に引き継がれている。現在、倉敷市を中心とする県南西部の基幹病院は1,172床を擁する倉敷中央病院である。一見公立病院のようだがそうではない。公益財団法人の大原記念倉敷中央医療機構が経営する私立病院で、大原孫三郎が立ち上げた。大正12年(1923)6月の開院で当時は倉紡中央病院といった。倉紡従業員の福利厚生のための病院だったが、地元住民の診療も受け入れていた。昭和2年(1927)倉敷中央病院に改称する。立ち上げにあたって大原孫三郎が挙げた方針の1つが「病院くさくない明るい病院」だ。まずはオレンジ色の瓦屋根が印象的な旧館のデザインに表れている(図4)。これも薬師寺主計が設計顧問として関わった名建築だ。中には温室が外来患者用、入院患者用に2つ設えられ、熱帯植物が患者の心と身体を癒してい⛩⛩

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