ファイナンス 2023年6月号 No.691
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第40回 「岡山県倉敷市」第40回 「岡山県倉敷市」倉敷IC三井アウトレットパーク倉敷店舗面積38,000㎡’11-アリオ倉敷/早島IC’80-市役所旧サブリーナタウンゆめタウン倉敷店15,138㎡’79-’99-イオンモール倉敷59,351㎡’81-ジャスコシティ倉敷跡11,363㎡(出所)地理院地図に筆者が加筆して作成(出所)令和5年3月14日に筆者撮影。図4、6も同じ275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E笹沖地区岡山バイパス560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D図5広域図の範囲図3市街図の範囲倉敷川江戸時代初期の海岸線旧・吉備児島図1 標高1.5m未満(白の部分)図2 旧第一合同銀行倉敷支店現代に受け継がれる大原孫三郎の情熱現代に受け継がれる大原孫三郎の情熱倉敷湊と本町慶長19年(1614)、大名茶人で知られる小堀遠州が大坂冬の陣の兵糧米を倉敷湊から積み出すため、倉敷川の傍に陣屋を構えたのが街の事始めという。児島湾が干拓されてできた平野が拡がる現代、倉敷には内陸の印象があるが、当時は児島湾に近く、倉敷湊は奥行き長めの堀込港のようだった。図1から標高1.5m未満の範囲をみると児島半島が島だった時代がうかがえる。なお遡れば倉敷も水面に鶴つる形がた山が浮かぶ島だった。山上に鎮座する阿あ智ち神社の主祭神が海上を司る宗像三女神であることにも港町の名残がある。陣屋は幕府の代官所となり、明治21年(1888)には倉敷紡績の本社工場となった。現在の倉敷アイビースクエアである。明治以降も引き続き舟運の街で、倉敷紡績が原綿の荷揚や製品の積出に舟運を使っていた。鉄道輸送に押されつつも、岡山県統計書によれば昭和9年(1934)の時点で倉敷川岸は移出入取扱量の上から6番目。そして街の中心は倉敷川の後背地にあった。大正15年の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書には、倉敷で賃貸価格が最も高い場所として「本ほん町まち」とある。本町には倉敷銀行の本店があった。倉敷紡績が創業して3年後の明治24年(1891)7月に設立される。倉敷紡績の資金調達が主な目的で、倉敷紡績の社長の大原孝四郎が初代頭取を務めた。大正8年(1919)9月、倉敷銀行は倉敷商業銀行その他5行と合併して第一合同銀行となる。倉敷銀行は第一合同銀行倉敷支店となった。預金、貸出金ともに倉敷支店が全体の4割を占めていたが、県域銀行を志向したことから第一合同銀行の本店は県都岡山市に置いた。頭取は大原孝四郎の長男、大原孫三郎である。合併を機に倉敷支店はルネサンス風建築に建て替えられた。岡山県出身の薬師寺主かずえ計が設計した。今も残る大正11年(1922)築の行舎は倉敷市指定の重要文化財だ。昭和5年(1930)12月、第一合同銀行は山陽銀行と合併して中国銀行となった。頭取は大原孫三郎が務めた。第一合同銀行あらため中国銀行倉敷支店だが、支店網の再編で営業店舗としての役割を終え、平成27年(2015)に大原美術館に寄贈された。令和7年には美術館新館「児島虎次郎記念館」となる予定だ。 54 ファイナンス 2023 Jun.路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史

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