ファイナンス 2023年6月号 No.691
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「損失補償制度は、昭和六年「愛知県中小商工業者等産業資金再補償制度」および「大阪府工業組合及び産業組合短期少額融通資金補償制度」に始まつた。これが刺激となつて、全国的には昭和七年「道府県又は六大都市の中小商工業資金融通損失補償制度」が生まれた。」*20) 中小企業信用保険公庫五年史によれば次の通り。 *21) 中小企業信用保険公庫五年史P.7*22) 中小企業信用保険公庫五年史P.7信用補完制度の解説において中小企業者等への金融支援の必要性が、社会問題として急浮上していったわけであるが、一方で、全くもって中小企業者等への金融手段が未発達であったわけではないことは、ここまでに述べてきたとおりである。即ち、インフォーマルな金融手段でなく、信用組合制度を皮切りに、最終的には、商工組合中央金庫や庶民金庫といった現在まで至るフォーマルな金融手段が、その社会情勢等も背景にしつつ整備されていった。そして、暫く触れていなかったが、本稿の主題である信用補完制度、特にその始まりとなった信用保証協会は、まさにこうした時代の中で、その必要性から誕生したものであった。とはいえ、上記のような中小企業者等への金融支援専門の機関が創設されることも、信用保証協会が創設されることも、結局は昭和10年代に入ってからであった。では、こうした機関や制度が講じられるまでの間は、如何にして対応していたのか。これは結論から言えば、既存の金融機関や組合等を活用する形で、対応していた。具体的には、大蔵省預金部資金を、日本興業銀行をはじめとする既存の金融機関に融通し、これによって中小企業者等への金融支援を行ったほか、特定の条件下での民間金融機関による貸付について、政府や地方公共団体が損失補償するという仕組みが取られたのである。そして、この損失補償の仕組みは、当初は地方公共団体単独の事業として始められた*20のであるが、徐々に全国的に普及し、信用補完制度が導入されるまでの戦前・戦中・戦後暫くまで広く活用されていた。そしてここから見えるのは、日本においては、民間金融機関自身の融資資金を活用するような形での中小企業者等への金融支援は、地方公共団体がその主体として始まってきたという側面ではないかと思われる。大量の政府資金を投入できる政府と異なり、地方公共団体が可能な範囲で出来る限りの金融支援を可能とするためには、民間金融機関自身の融資能力を活用することが最も効果的であったのだろう。一方、こうした各種手立てを講じても「…金融機関の原則として確実な担保を徴求するという融資方針は緩和されなかつた*21…」し、また、こうした直接的な損失補償という仕組みは「…多額の財政資金を必要とし、手続も煩さて補償限度も低い…*22」ため、その改善も必要であった。地方公共団体にとって、どうすればより簡便で効果的な中小企業者等への金融支援が可能となるか、そういった検討・議論が繰り返される中で、漸く信用保証協会が誕生することとなるのである。そして、そうした金融の途が閉ざされる問題に対して、信用組合制度の創設等の工夫は存在したものの、それらがすぐさま大きな効果を発揮することにはならず、最終的に昭和初期の金融恐慌等の中で、中小企業者等への金融支援は、社会問題として浮上した。こうした問題に対し、政府としては、主に大蔵省預金部資金の融通、地方公共団体としては、主に民間金融機関自身の融資に対する損失補償制度を導入していったわけであるが、最終的に政府の方は、中小企業者等への金融支援を専門とした金融機関を設立するというような方向へ動いていく一方、地方公共団体の方は、民間金融機関自身の融資を活用しつつ、より簡便かつ効果的な制度を模索していくこととなった。それらが昭和10年代に入って一気に結実してくることとなる。そして、地方公共団体が主体となって創設した損失補償制度の改善を図る中で生まれたものが、信用保証協会であった。しかしこれだけでは、何故今のような信用補完制度が整備されるに至るかまでは明らかではない。そこで次は、ここまでの背景を踏まえつつ、信用保証協会の創設、そして戦後の信用補完制度の成立までを追うこととしたい。4.おわりにさて、ここまでの内容を一旦纏めておきたい。戦前期においては、第一次世界大戦後の恐慌・災害等により金融システムが破綻していく中で、中小企業者等への金融の途が、急速に閉ざされていった。(以上) 36 ファイナンス 2023 Jun.

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