ファイナンス 2023年6月号 No.691
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*18) 商工組合中央金庫二十年史P.15-16*19) なお、この恐慌によるダメージは、都市部もさることながら農村部で顕著であり、身売り等も頻発した。そしてこうした惨状が、その後の日本社会を急速に不安定化させていく背景となったことは、一般的な歴史の教科書が記すとおりである。ファイナンス 2023 Jun. 35信用補完制度の解説はこの東京渡辺銀行の件以上に問題であったのは、先述の法案2本が審議される過程で判明した、台湾銀行及び鈴木商店の財務状況の悪化であった。それらの事情が開陳されていく中で、鈴木商店への貸出は引き締めが始まり、最終的に同年4月5日、鈴木商店は内外新規取引の中止を発表。また、鈴木商店と密接な関係を有していた台湾銀行も最終的に休業へ追い込まれてしまう。そして、こうした事態が進む中で、関西地方の有力銀行であった近江銀行、宮内省御用として絶対的信用のあった十五銀行までが休業する事態となり、ここに全国的な取り付け騒ぎが発生したのである。預金保険制度すらない当時、絶対的な信用があった銀行までが休業する、救済されないという事態となっては、民心としては当然の行動であり、最終的には郵便貯金にまで取り付け騒ぎが発生した*18。そして、こうした昭和金融恐慌により、全国的に銀行が休業しはじめる中で大きく問題となったのは、中小企業者等の金融手段が絶たれていくという問題であった。銀行取引が可能な中小企業者等を主に取り扱っていたのは、いわゆる中小銀行であり、それらがこの金融恐慌の中で休業していったため、中小企業者等は金融の途を絶たれた上、銀行の整理によって預金の凍結あるいは切捨てを受けたのである。また、銀行側も主取引層たる中小企業者等から貸金回収を図ったため、一層状況は悪化した。さらに、銀行側の整理・強化のため、1928年に銀行法が施行されると、不安定な中小企業者等への資金融通は、一層困難なものとなっていった。こうして、中小企業者等への資金繰りという問題は、昭和金融恐慌という全国的な信用収縮の過程で、銀行取引が出来ていた中小企業者等すらその融資対象から排除されていくことにより、喫緊の社会的課題として浮上したのである。そして、こうした金融上の混乱の上に、中小企業者等への更なる経済的圧迫となったのが、1930(昭和5)年に行われた「金解禁」と、それに伴う不況であった。金本位制ではない今となってはよくわからない物事に見えてしまうが、表面的に経緯を述べておこうと思う。第一次世界大戦が勃発して以降、主要国は、一時的に金の輸出を禁じていた。金本位制という環境下において、兌換紙幣としての裏付けである金が国外に流出することを防ぐためである。その後、第一次世界大戦が終結すると、多くの主要国は金の輸出解禁(金解禁)を行い、金本位制へ復帰していった。一方、関東大震災のような巨大災害等もあり、輸入超過が続く日本は、主要国で唯一復帰できていない状況にあった。こういった状況が続くことは、国際的な信用にも関わる問題であった上に、産業界や金融界からも強い金解禁要求があったこともあって、時の政府は、金解禁の準備を進めることとなる。この際、金解禁により復帰しようとした水準が、言わば実際の経済力に比べて円高であったため、政府としては、当該水準に見合うよう(円の価値が上がるよう)、国内物価の引下げ等、消費の圧縮を図っていった。そして、そのタイミングに偶々、米国発の世界恐慌(1929(昭和4)年)が重なったことが事態を重篤化させてしまった。すなわち、金解禁を予定通り行った結果、過度な円高状況となり輸出急減、さらに世界的な景気急減速の中で輸出不振は一層深刻となり、国内の購買力は縮小し、物価は大幅に下落したのである。そして、こうした要因だけではないが、その他複数の要因がこの時期に重なり、結果、1930・1931(昭和5・6)年あたりにかけて、日本は恐慌状態に陥ったのであった*19。そしてこのような急速な景気悪化は、昭和金融恐慌によって大きなダメージを追っていた中小企業者等には、まさに追い打ちであった。今となってはなかなか想像・理解しがたい部分はあるだろうけれども、結果的にこうした不況・災害等の積み重なりが、金融的に脆弱な中小企業者等への金融支援の重要性を浮かび上がらせることになったのである。(政策的な中小企業者等への金融支援の始まり)さて、このようにして大正末期から昭和初期にかけての社会状況、とりわけ昭和金融恐慌を契機に、日本

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