ファイナンス 2023年6月号 No.691
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*15) 商工組合中央金庫二十年史P.2*16) 商工組合中央金庫二十年史P.4*17) 商工組合中央金庫二十年史P.4中で中小企業者等は「…新設転換が容易であるという特質を活かして、どしどしと輸出品工業に進出あるいは転換して行つた*15…」のであった。しかしながら、そういった好景気の中では、いわゆる戦争成金が生まれる一方で、輸出過多による物資不足や物価高騰が始まり、いわゆる一般庶民の生活は困難になり始め、徐々に社会不安定化の芽が芽生えるようになる。こうした状況の下、第一次世界大戦が終結すると、当該大戦において大きな損失を受けなかった日本は、一時的な景気後退はありつつも、暫くは好景気を維持できていた。一方、徐々に欧州諸国の生産が正常化されていくと、第一次世界大戦中に構成された過剰な生産体制は、輸出用の生糸・綿糸の価格下落等の形で徐々に表面化してくることとなる。そして最終的に、1920年3月15日に株式暴落、4月には大阪の増田ビルブローカー銀行の破綻、さらにその後、横浜の貿易商・茂木商店の機関銀行であった七十四銀行の休業により、ついに金融恐慌に発展してしまう。この過程で、いわゆる戦争成金の多くは没落し、結果的に財閥による大企業独占・寡占体制が強化されるようになるわけであるが、金融においても、預金が大銀行に集中するようになり、いわば中小銀行が淘汰され始める時代が始まったのであった。さらに、こうした戦後恐慌への対処を進めていた日本経済に大打撃を与えることとなったのが、1923年の関東大震災である。関東地域への甚大な物理的被害は勿論のこと、様々な社会混乱が巻き起こった。そしてこの混乱において、金融も当然の如く例外とはならず、こうした社会混乱の中で銀行が保有する多くの手形が決済不能となったのである。こうした異常事態に対処するため、政府は1億円を限度に、いわゆる「震災手形割引損失補償令」(「日本銀行ノ手形ノ割引ニ因ル損失ノ補償ニ関スル財政上必要処分ノ件」(大正12年勅令第424号)。以下同じ。)を発し、銀行が保有する、いわゆる震災手形を買い取る形で緊急融資を実施することとなった。加えて、このような中で、復興が本格化すると、それはそれで問題を引き起こすようになった。すなわち、「…大正八年以降連年入超を続けてきた貿易尻が復興資材輸入のため一段と悪化…在外正貨は枯渇し為替相場は暴落を演ずる等震災の影響は愈々深刻化*16…」し始めたのである。このような事情を背景に、「…為替不安解消、経済建直しのための金解禁即行論が漸く強大な意見となつて抬頭する…*17」こととなるのであった。そして、こうした震災手形、金解禁といった論点は、最終的に昭和初期の恐慌問題そのものを発火させる導火線となるのである。(昭和初期の恐慌〜昭和金融恐慌と昭和5・6年恐慌〜)年号が昭和に変わって早速の1927年、まずは先述の震災手形が問題を生じさせることとなる。実は、震災手形割引損失補償令に基づく震災手形の決済期限は、当初は2年であったところ延長が繰り返され、最終的に1927年9月末がその期限となっていた。そういった中で当時の若槻内閣は、1927年1月、先述の金解禁議論も踏まえ、早期に日本を金本位制に復帰させるべく、震災手形を処理するための法案2本を帝国議会に提出する。しかし、この議会での質疑が、世間でもよく知られている、昭和金融恐慌の幕開けであった。1927年3月14日、当時の野党は、この救済策を、言わば一部資本家への救済策として厳しく追及していた。そういった最中、野党から「銀行が破綻した場合に、政府はいかなる手段を取るのか」といった趣旨の質問を受けた、時の片岡蔵相は「今日正午頃に、渡辺銀行が破綻した」という内容の発言をしてしまう。よく知られているように、この時点で東京渡辺銀行(渡辺銀行)は、資金繰りに窮していたものの破綻はしていなかったのであるが、この発言を機に、東京渡辺銀行等が休業してしまうのである。そして、一般的にこれが契機になって昭和金融恐慌が一気に始まったかのように思われがちであるが、実(戦後恐慌の発生)(関東大震災の発生) 34 ファイナンス 2023 Jun.

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