ファイナンス 2023年6月号 No.691
37/78

*12) 「もう一度信用金庫史を顧みる〜信用金庫の成立過程(信用金庫前史)について(後編)〜」(村本孜)(信用金庫2022年10月号)P.41*13) 井関孝雄(庶民金庫の参事・貸付課長。後に国民金融公庫発足時の副総裁。)は、自著「庶民金庫の解説」において、その創設までの経緯を次のように述べている。なお、この庶民金庫は、恩給金庫と共に、現在の株式会社日本政策金融公庫国民生活事業の前身である。「前々の内閣の馬場蔵相の第七十議会の時、此の法律が議会に現はれやうとした時に、無尽会社や市街地信用組合、質屋等に従事して居る人々の中には『庶民金融は既に吾々でも充分之れをやつて居る。今更、庶民金融に対しては、庶民金庫等は何の用事があるのか、そんなものは既設金融機関の領域を攪乱するのみであつて何等の用に立たないものである』と云ふ反対議論さへ現はれて時の大蔵当局を悩ましたものである。然るに時は移つて、二年後の近衛内閣の時代になると、此の反対した既設の金融機関までが逆に『庶民金庫』の設立を謳歌し、果ては其の代行機関の看板をまで争ふやうになつて来たのである。時代とは云へ大変な変り方である。」ここから見えるのは、都市部において銀行が貸し出せない層への資金融通は、無尽会社や市街地信用組合、質屋等の既存の金融制度で十分対応できるという声が、従来は圧倒的に多かったものの、それらが時代的変化の中で変わってきたという事実である。*14) 商工組合中央金庫二十年史P.1ファイナンス 2023 Jun. 33信用補完制度の解説しかしながら、既に産業組合法を所管する当時の農林省は「庶民銀行」構想に対抗することとなり、妥協策として、1917年の法改正により、都市部に適した信用組合として「市街地信用組合」が創設されることとなる。この信用組合は、従来の産業組合としての信用組合と異なり、組合員以外の預金の吸収・手形割引などの金融機関的な広い業務を行うことで、都市の中小商工業者の共同組織金融機関として定着することが期待されていた*12。なお、この市街地信用組合は、戦前末期に産業組合法から分離し、単独法として成立、戦後の混乱期を経て、最終的に信用組合制度から完全に分離し、現在の「信用金庫」へと発展することとなる。では、こうした公益質屋や市街地信用組合の導入により、少しは中小企業者等の資金的困窮は解消されたのかというと、結果的に、それらの層の資金需要に応えているとの評は得られなかった。むしろ、昭和期の恐慌に突入する中で、中小企業者等の資金的困窮は、一層極まっていくのである。結果的にこうした問題の表面化・社会問題化は、都市部の中小企業者等の資金需要を満たす金融機関・制度の必要性が叫ばれる要因となり、最終的には、中小企業者等の専門金融機関という点では、組合金融を行う商工組合中央金庫の創設に繋がっていく。さらに、国家総動員体制の強化を追い風に、通常の銀行等では対応が難しい層への金融手段の提供、社会的安定性の確保といった観点からは、恩給金庫及び庶民金庫が創設されていくこととなったのである*13。そして、今回の本題である信用補完制度の始まり、信用保証協会の創設も、先に結論だけ言ってしまえば、こういった社会状況の中で誕生することとなった。そしてここから見えてくるのは、銀行制度では資金需要を満たせない層への資金供給手段を講じるという点は、戦前から議論されてきたものの、都市部の中小企業者等の資金需要に応えられるような機関・制度の整備を強力に推し進めたのは、大正末期から昭和初期にかけての社会状況にあったということであろう。では、中小企業者等の資金需要を適切に満たし、また過度に不安定な状況に置くことを避けることの社会的必要性は、何故この時期において一層認識されることとなったのか。それを理解するためには、歴史の教科書的な内容にはなってしまうが、まさにその時期の社会状況そのものを理解することが最も近道であろう。では、こうした中小企業者等の金融問題が噴出する背景はどこにあったのか。これについては、様々な分析・解釈があると思われるが、あくまで個人の理解としては、第一次世界大戦がそれらを生み出す境界線になっているように思う。以下、そのあたりの時間軸から、日本史の教科書のようなものになってしまうが、昭和初期までの社会状況を概説していきたい。(恐慌・社会不安定化の芽(第一次世界大戦))一般的な教科書でも述べられるように、元号を明治に改め、近代国家としての歩みを始めた日本は、富岡製糸場でも知られるように、紡績業等の軽工業から工業化の道を歩み始め、その後、日清・日露の両戦争での勝利を経る中で、徐々に重工業化の途を辿るようになった。そして、そういった過程で発生した第一次世界大戦は、日本にとって空前の好景気をもたらすこととなった。すなわち「大戦の当初においては輸出入の杜絶と戦争の見通し困難のため、むしろ打撃と混乱の様相を呈したが、輸出の増大はまず軍需品から始まり、一年後にはそれまで欧州品に頼つていた東洋諸国等がその輸入難のため供給を我が国に求めるに至つて、綿糸布、同二次製品、各種雑貨、紙等の民需品の需要が殺到したため、大戦景気は本格化し大正五年から六年にかけて最高潮に達した*14」のである。また、こうした(4) 大正末期から昭和初期にかけての社会状況と中小企業者等への金融支援

元のページ  ../index.html#37

このブックを見る