ファイナンス 2023年6月号 No.691
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*8) 「マイクロクレジットは金融格差を是正できるか」(佐藤順子)P.17*9) 商工組合中央金庫二十年史P.62*10) 佐藤P.21-22*11) 佐藤P.22ある。対する問屋金融とは、文字通り問屋、買継商、原料商といった者から資金融通を受ける方式である。今となっては、こちらもなじみの薄い金融手法であるが、商工組合中央金庫二十年史の表現を借りれば「…問屋、買継商から開業資金の融通を受けたり、原材料購入資金、職工賃金等に充てるため製品販売代金の前貸を受けたり、また原料商から原材料の貸与を受け製品販売代金の回収をまつて返済を行うといつた方法…」であった。しかしながら、現代の日本ではなかなか見ることのできないこのような金融手法は、内容を見ても容易に想像できるように、非常に不安定な金融手法であったし、敢えて文章化すると次のような問題があった。まず、無尽・頼母子講の場合は、「…限られた友人・隣人関係に依存して構築せざるを得ず、結果として供給金額が過少になりがちとなる…」だけでなく、「…必要な時に資金を手に入れられないという資金需給時期のミスマッチの問題…」を克服することが出来ない。仮に、資金需給時期のミスマッチを解消しようとするならば、入札方式を導入することになるところ、それは「…より資金を必要とする者がよりディスカウントされた取り金を取得することになりかねず、事実上の高利払いとなってしまう…」*8。そして問屋金融の場合、「…最も簡便な反面、高金利その他の悪条件を課せられ、更には経済的強者、弱者の関係から営業上種々の拘束を受ける事例が少なくなかつた。のみならず不況の深刻化に伴つて問屋自体に破綻を来たす者が続出したので問屋金融に依存していた中小商工業者もその親柱を失い困窮の果、質屋、金貸業の許に走らざるを得な…」*9くなるという問題が存在したのである。上記の不況期の記載は、後述する昭和初期の恐慌を背景とした記載であるが、少なくともここから見えるのは、昭和初期の時点であっても、中小企業者等は現在の想像よりも非常に金融面で脆弱な存在であったし、社会が発展する中でフォーマルな金融手段が増えていったであろう中であっても、その脆弱性は容易に改善されない状況に置かれていたという事実であろう。通常の銀行制度では資金融通を得られない者への資金融通をどう実現するか、これは上記の内容からも見えるように、社会の発展・安定という観点では非常に重要な問題であった。そして、これらの問題へのフォーマルな解決策として導入を企図されたものが、現在でいう信用組合であった。ここでは、信用組合制度の導入について、その背景や経緯を簡単に説明しておこう。日本において信用組合という概念は、「…1870年代のドイツに留学していた品川弥二郎内務大臣以下の内務官僚や、法制局部長平田東助…」の主導によって、具体的に法制化が図られたものである。当時の経緯としては、「…地域政策・治安政策を担当する内務省で社会政策として構想・提案され」たものであり、その背景として「…階級対立を未然に防ごうとする防貧的社会政策の一つの実践形態として移入…」するという点があった。この内務省主導の信用組合構想は、当時の帝国議会において、政府が解散に追い込まれたことにより廃案となり、また1897年にも廃案となったものの、「…1900年にようやく農商務省主導で「産業組合法」…が成立し、産業組合の一形態としての「信用組合」が法認…」されることとなった*10。ただ、実際に成立した法案が農商務省主導であったこともあり、日本において法認された信用組合は、「…農村振興事業としての性質が一層強くなり、市街地への浸透力を欠くもの…」になってしまい、「…その点は後々まで政策課題として長く残ることに…」なったのである*11。そして、この上記の政策課題は、戦前日本がその近代化を推進する中でこそ、更に重要度を増していった。農村部を主要対象とする産業組合制度では、都市部における中産層以下の資金需要に応えられていない、こうした実状を背景に、政府も各種手立ては打ち始めていた。例えば、当時の内務省は公益質屋を制度として創設し、また当時の大蔵省は1912年、「庶民銀行」を構想することとなった。(2)信用組合の誕生(3)都市部のための金融手段の模索 32 ファイナンス 2023 Jun.

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