第39回 「佐賀県佐賀市」第39回 「佐賀県佐賀市」(出所)令和5年4月8日に筆者撮影275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D図1 旧古賀銀行(現・佐賀市歴史民俗館)紺屋川、長崎街道と柳町街なかに掘割が巡る街といえば福岡県の柳川が有名だが、同じく有明海に面した佐賀の街も多くの掘割が残っている。県庁所在地にしては静かな街で、旧城下町はJR佐賀駅から1.5kmほど南にある。城下町の東西軸が長崎街道である。近代以降、この街道に沿って中心地は東から西へ動いてきた。舟運の時代を反映し、明治中期の中心地は川湊の後背地にあった。佐賀県統計書によれば、明治29年(1896)の宅地地価の最高地点は「柳町」である。柳町の東側に流れる紺こん屋や川は感潮河川で、有明海の潮の満ち引きで上り下りが変わるのが特徴だ。紺屋川の先で佐賀江川に合流し、筑後川河口の諸もろ富どみ港で有明海とつながっていた。平成31年(2019)、紺屋川に架かる思案橋のたもとで荷揚げ場の遺構が発掘された。遺構は昨年公園化され「柳町思案橋広場」になった。今年の3月には市の史跡に指定され「思案橋荷揚げ場跡」となった。往時をしのぶスポットが佐賀市歴史民俗館だ。近代の和洋建築群の総称で旧古賀銀行、旧古賀家、旧牛島家、旧三省銀行、旧福田家、旧森永家、旧久富家の7棟からなる。ひときわ目立つのが旧古賀銀行だ(図1)。古賀銀行の設立は明治18年(1885)で、元は旧古賀銀行の斜め向かいの土蔵造「旧中村家」にあった。旧古賀銀行の行舎は明治39年(1906)の竣工で、大正5年(1916)に増築された。元々漆喰壁だったが増築に伴って煉瓦タイル張りになった。その後も増築されたが、資料館に改修するにあたって大正期の姿に復元された。平成4年(1992)に市の所有となり、平成7年(1995)には佐賀市重要文化財に指定された。古賀銀行は九州5大銀行と称されるほどの地元大手行だったが、第一次世界大戦の戦後恐慌で経営不振となり、大正15年(1926)に休業を余儀なくされた。その後復調することなく昭和8年(1933)に解散した。戦中をまたぎ、呉服町の時代は昭和42年(1967)まで続いた。昭和34年(1959)の最高路線価は「呉服町三笠屋呉服店東側通」である。三笠屋は呉服町と元町が交差する角にあった。昭和41年(1966)の地点名「呉服町キンタイ洋服店前通」に登場する洋服店は今も同じ場所にある。呉服町は佐賀で初めて百貨店が出店した場所でもある。大正9年(1920)10月に開店した4階建の丸木屋である。金融恐慌の煽りで昭和2年(1927)に閉店呉服町の賑わい明治44年(1911)、最高地価の場所が柳町から呉ご服ふく町まちに移った。大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書では、大正15年(1926)時点の最高賃貸価格の場所として呉服町、元もと町まち、白しら山やま町まちが列記されていた。これら3町は長崎街道に沿って隣接している。いずれも戦後にわたる中心商業地で高度成長期にはアーケードが架けられた。今でも白山町にアーケードが残る。 46 ファイナンス 2023 May掘割巡る水の街で映える余白の美掘割巡る水の街で映える余白の美路線価でひもとく街路線価でひもとく街のの歴史歴史
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