図4 イオンモール岡山 70 ファイナンス 2023 Apr.例えば大阪本店の鴻池銀行が明治34年(1901)、山口銀行は明治43年(1910)に岡山支店を出店した。両行は合併して三和銀行となる。二十二銀行は大正8年(1919)に移転してきた。建物が現存する旧日本銀行岡山支店は大正11年(1922)竣工(図3)。正面4本のコリント式オーダーと三角ペディメントが特長の古典主義建築で、本店別館はじめ日銀行舎を多数手掛けた長野宇う平へい治じの設計だ。日銀が同じ通りの現在地に移転した昭和62年(1987)に改修され、「ルネスホール」となった。和に入ると駅に向かって中心が動いてゆく。岡山駅の開業は明治24年(1891)3月である。神戸駅から西は私鉄「山陽鉄道」が整備していた。国鉄に移管されたのは明治39年(1906)である。開通の次に鉄道優位のきっかけとなったのは明治43年(1910)の宇高連絡船の開通である。高松駅に向かう岡山側の連絡が三蟠港から宇野港に移った。京橋を玄関とする舟運の地位が相対的に低くなるにつれ駅前の中心性が高まった。筆者の手元資料のうち、昭和で最も古い地価の記録は昭和35年(1960)である。当時の最高路線価地点は「下之町かめや食品店東側通」だった。下之町には地域一番店の天満屋百貨店の本店がある。天満屋は文政12年(1829)に伊原木茂兵衛が現在の岡山市東区西大寺に旗揚げした小間物店が源流だ。大正元年(1912)に岡山市に支店を開設。場所は現在地(下之町)の北側の中之町だった。大正14年(1925)、現在地に洋風木造3階建の百貨店を新築し、本店を移した。下之町の賑わい大正期までは西大寺町が岡山の中心地だったが、昭隣接するバスターミナルは昭和24年(1949)の開業。現在は本店の東隣だが、当初は増築前の本店の北隣つまり現店舗の北側にあった。大阪の阪急百貨店のように鉄道駅に百貨店を併設するケースはあったが、百貨店にバスターミナルを併設するケースは本邦初だ。下之町を中心に上之町、中之町から栄町、その南の千日前まで南北1kmに渡って岡山を代表する商店街として賑わった。西大寺町を含め「表町」と称される。岡山会館は戦後復興の駅前開発の一環として、岡山県や岡山市も出資する第三セクターの株式会社岡山会館が整備したビルである。昭和36年(1961)の竣工なのでその翌年に最高路線価地点が駅前に移動したことになる。当時は西日本随一のマンモスビルと呼ばれた。最高路線価地点は昭和44年(1969)に「駅前町1丁目花月堂前通り」となる。岡山会館の1筋裏手の岡山駅前商店街の入り口があるところだ。駅前の商業拠点性が高まったのは、昭和47年(1972)の山陽新幹線の新大阪-岡山間の開通がきっかけである。その翌年5月に岡山高島屋、2年後の8月に駅前地下街の岡山一番街が開業した。そして昭和50年(1975)、最高路線価地点が桃太郎通りを挟んで北側から高島屋のある南側、「本町土井原ビル駅前通り」に移った。昭和53年(1978)11月には岡山会館の東に地上7階建の再開発ビル「ドレミの街」が竣工。核店舗としてダイエー岡山店が開店した。平成17年(2005)に撤退し現在はIイコットニコットCOTNICOTになっている。ダイエーは柳川店、駅前店に続く岡山市内3店舗目だった。昭和54年(1979)には、ニチイおよびビブレの岡山店が開店した。いずれも同じ会社の別業態であり、その後岡山ビブレのA館とB館になる。ビブレ開店の翌年にはダイエー駅前店が若者向けのZザップAPに業態転換。その後OPAに転換するなど駅前は次第に若者向けの街のようになってきた。以来、現在に至るまで駅前が最高路線価地点であるが、この10年で岡山の商業勢力図は大きく変わった。新幹線の開通と駅前の発展さて、下之町が最高路線価地点だったのは昭和36年までで、その翌年の昭和37年(1962)には「上石井岡山会館駅側通」に移った。
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