ファイナンス 2023年4月号 No.689
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県庁跡市民会館上之町中之町西川緑道公園ビブレ跡バスターミナル城下筋栄町下之町天満屋柳川筋市役所筋船着町後楽園旭川図3 旧日本銀行岡山支店(現・ルネスホール) 奉還町商店街岡山会館旧ダイエーダイエー→OPA跡髙島屋イオンモール岡山イトーヨーカドー跡杜の街グレース市役所岡山駅前商店街下石井公園桃太郎大通りハレまち通りあくら通り岡山児島線住友跡15→三井跡鴻池↓三和跡22→安田→富士跡山口↓三和跡長崎屋跡イズミ↓LOTZ跡ダイエー↓Topos跡クレド岡山22↓安田跡農工↓勧銀跡加島銀行跡中国旧日銀西大寺町橋本町ハレミライ千日前京橋街道筋路面電車水路跡県庁通りシンフォニーホール日銀22跡岡山城県庁図2 市街図(出所)筆者作成ファイナンス 2023 Apr. 69第八十六国立銀行である。中国銀行の母体は大正8年(1919)9月に倉敷銀行、鴨方倉庫銀行、倉敷商業銀行、茶屋町銀行、天満屋銀行および日笠銀行の6行が合併して新設した第一合同銀行である。6行はいずれも岡山市以外に本店があったが、県域の銀行を志向していたことから合併後の本店は岡山市に置いた。初代頭取は倉敷銀行の2代頭取で、倉敷紡績や大原美術館のオーナーで知られる大原孫三郎だ。全国に比べ一足早い広域統合には、二十二銀行が安田系列になり地元資本の大手行が無くなってしまった背景があった。大阪に本店を構える進出行の攻勢も目立っていた。こうした進出行は岡山で集めた預金を大阪はじめ大都市で運用していた。大正10年(1921)に岡山県、大正13年(1924)に岡山市の金庫を二十二銀行および加島銀行に代わって受託する。大正12年には預金量で二十二銀行を追い越しており、名実ともに岡山県および県都の地域一番行となった。大正9年(1920)に八十六銀行を吸収。さらに昭和5年(1930)12月には津山市に本店を構え県北の美作地域を地盤としていた山陽銀行と合併して中国銀行となった。本店は昭和2年(1927)に新築した第一合同銀行の本店を引き継ぎ、新銀行の初代頭取も大原孫三郎が務めた。明治45年(1912)、岡山駅前と京橋の間に路面電車が開通。明治後期以降の銀行の行舎は、鉄路と水路のターミナルの中間点を中心に電車通りに集まった。

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