第38回 「岡山県岡山市」図1 西川緑道公園275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)令和5年3月13日に筆者撮影(図3~4も同じ)水辺と街路の1kmスクエアまちづくり 68 ファイナンス 2023 Apr.京橋の舟運と西大寺町街道と舟運の時代、城下町の玄関口は京橋だった。京橋のたもとに川湊があって旭川舟運の高瀬舟が行き交っていた。岡山の内港が京橋とすれば外港は京橋から8kmほど下流の三さん蟠ばん港である。明治36年(1903)岡山駅から駅前通り「桃太郎大通り」を岡山城に向かって歩くと、市街を南北に貫く西川緑道公園の緑が目に入る(図1)。慶長年間に開削された農業用水の両岸を公園化したものだ。この水路が城下町の外縁である。さらに進むと「柳川ロータリー」にあたる。交差する幅36m道路は岡山城の外堀があった道だ。明治時代に堀を埋め立て水路にしたが、その両岸の道に柳並木があったことにちなみ柳川筋という。今は水路の代わりに路面電車の線路が走る。岡山城は旭川を背にして片側に構築された梯てい郭かく式の城郭で、要するに柳川筋と旭川に囲まれた部分が岡山城の総体である。城内を西国街道が貫き、その沿道には商家が軒を並べていた。年以降、明治43年(1910)に宇高連絡船が開通するまではこちらが高松行き連絡船の発着港だった。水深の制約はあるが京橋発着の航路もあった。京橋の北側河岸には魚市場もあった。その他様々な物資の集積地だった京橋を中心に経済が発展した。鉄道が開通する前、明治18年(1885)の岡山県統計書によれば最高地価の場所は「西大寺町」である。西大寺町とは、西国街道を区切って付けられた町名の1つで、京橋を渡って橋本町の次の両側町である。西大寺町の次が栄町で下之町、中之町、上之町と続く。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書においても最高価格は西大寺町だったことから、明治大正を通じて街の中心だったと見受けられる。岡山で初めての銀行は京橋の河岸にでき、その後西大寺町に移転した。旧岡山藩士が中心となって旗揚げした第二十二国立銀行である。明治10年(1877)11月、その名の通り船着場で栄えた船着町で開業した。国立銀行制度の満了後に二十二銀行となる。西大寺町には明治36年(1903)に移転した。二十二銀行は地元初かつ県下最大の銀行で岡山県の金庫(指定金融機関制度の前身)も務めていた。ところが日清戦争後の不況で経営悪化し、明治34年(1901)、今のみずほ銀行の統合前3行のうち富士銀行の前身である安田銀行の傘下に入る。大正12年(1923)には安田銀行に吸収合併された。なお県外進出行で最も早いものは大阪に本店があった加島銀行である。明治26年(1893)の進出で岡山市の金庫を務めていた。後に三菱銀行岡山支店となる。現在、岡山県を地盤とする地方銀行は中国銀行である。戦前の一県一行主義を背景とした銀行で昭和5年(1930)の設立。数ある前身行で最も古いものは、現在の高梁市で明治11年(1878)12月に設立された路線価でひもとく街の歴史
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