ファイナンス 2023年3月号 No.688
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ファイナンス 2023 Mar. 75図4 ハーバーウォークの先に旧神戸港信号所を臨む (出所)令和4年11月6日に筆者撮影プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)式で三宮駅(現・神戸三宮駅)に延伸した。これで国鉄、阪急そして阪神の三ノ宮(三宮)駅が集結する位置関係が完成する。その後地下鉄を含め6つの「三宮駅」を擁する一大ターミナルとなるが元々は郊外だった。余談だが6駅の住所はすべて三宮の外にある。JR線の南、フラワーロードから西側が三宮町だからだ。阪神電車は地下線の整備に伴って駅ビル「三宮阪神ビル」を建設。そごうが入居した。昭和2年(1927)に居留地エリアの現在地に移転した大丸に続きそごうも元町通から移転したことになる。昭和45年(1970)には、それまでと同じ三宮センター街でも駅により近い場所(三宮町一丁目)に最高路線価地点が移る。昭和30年以降は三宮駅前の求心力の高まりに拍車がかかった。昭和32年(1957)に神戸市役所が現在地に移転。商業中心地としての発展で目を見張るのはその翌年に三宮に出店したダイエーである。昭和36年(1961)の増床で日本最大のスーパーとなり、昭和38年には5階建のデパート業態を出店。もっとも外見はデパートでも5階建の3階以上が専門店街だったので百貨店法の規制に入らず、後の法改正のきっかけとなった。三宮センター街は一見ふつうのアーケード商店街だが、実際は道の両側に配置された大規模共同店舗の集合体である。道を挟んで北側は神戸市施行の再開発事業で、さんプラザ、センタープラザ、同・西館の3棟。同じく南側が民間施行の再開発事業で、第1から第5までの「防災ビル」、グレースビルの6棟からなる。昭和45年(1970)竣工のさんプラザから足かけ10年弱の事業だった。その10年後の平成元年(1989)、最高路線価地点は三宮センター街のフラワーロード側、「野村證券神戸支店前」に移転する。他方で明治以来の商業地である元町、特に大正時代に百貨店が軒を並べた西側エリアの地盤沈下が目立った。昭和59年(1984)の三越閉店は象徴的な出来事として受けとめられた。平成27年(2015)、「人が主役のまち・居心地の良いまち」をコンセプトに「神戸都市ビジョン」が公表された。その3年後に打ち出されたのが「えき=まち空間」基本計画だ。三宮の6つの駅をひとつの大きな駅に見立て、駅前市街地と一体の「えきまち空間」とする構想だ。目玉は三宮交差点を中心とした南北400mを、人と公共交通優先の空間「三宮クロススクエア」とする取り組みである。まずは最大10車線の幹線道路を最小3車線に減幅のうえ右折車線を無くして徒歩で回遊しやすくする。沿道にバスターミナルが新たに整備されるなどターミナル機能も強化される。JR三ノ宮駅をはじめ老朽ビルの建て替え計画が周辺に相次ぎ、街の景観が大きく変わる予定だ。主に旧居留地に残る近代建築や港湾インフラは、開港地独特の街の気風とセットで街の記憶を確かなものにしている。旧居留地の一角は高級ブランド街になった。店構えからは見分けがつかないが、大丸が35年前から少しずつ近代建築を借り上げ、ブランドを誘致してきたものだ。神戸の街は歴史の遺産を資源とし、外には観光都市、内には人が住み、働いて快適な街として再生が進んでいる。居心地重視の徒歩空間へ都市改造90年代初め、鉄道開通以来の神戸駅、その後湊川貨物駅として使われた広大地の再開発が進められた。今のハーバーランドである。平成4年(1992)の街びらきにあわせダイエー、阪急、西武などが出店したが、バブル崩壊の余波や震災もあって集客は振るわなかった。30年経った現在、周囲に高層マンションが建ち始め「住まう街」の要素が加わり、非日常と日常が混じりあう街になった。

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