ファイナンス 2023年3月号 No.688
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図3 旧日本郵船(現・神戸メリケンビル)(出所)令和2年7月31日に筆者撮影 74 ファイナンス 2023 Mar.の変遷を辿ると、まずは同じ海岸通で三丁目から一丁目に移っている。大正8年(1919)の兵庫県統計書で海岸通一丁目。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書による最高地価も同じ場所である。ここはメリケン波止場のたもとにあたる。アメリカ領事館があったことから「メリケン」波止場と呼ばれた。領事館が移転した跡地には日本郵船神戸支店が建った。曾禰達蔵、中條精一郎の設計で大正7年(1918)の竣工。現在は神戸メリケンビルと呼ばれる(図3)。開港以来の商業中心地が元町通だ。神戸の東西軸は海に面した海岸通、銀行街の栄町通、元の西国街道の元町通の3本ある。海岸通、栄町通と同じく元町通も1丁目から6丁目まであり、大丸が4丁目、そごうが5丁目、三越が6丁目にあった。大正時代は百貨店の源流となる呉服店がそろい踏みした。元町通で最も古いのは明治34年(1901)のそごうである。大阪心斎橋を本拠とし、進出当時は十そごう合呉服店といった。大丸は大正2年(1913)の開業。当時は大丸呉服店の神戸出張所だった。最後が三越である。大正14年(1925)、元町通の西端に「元町デパート」が開店した。デパートとはいえ百貨店ではなく、様々な商店がテナントに入る形式の共同店舗だった。ところが開店まもなく資金繰りが厳しくなり競売の危機に陥る。オーナーとの交渉の末、三越が継承することになった。大正15年(1926)三越呉服店大阪支店の分店として開業。昭和3年(1928)6月1日に神戸支店に昇格した。この日、法人の商号を三越呉服店から「三越」に変更。これを弾みに全国に支店網を広げる。さて、昭和34年(1959)の最高路線価地点は、「三宮町二丁目ドンク喫茶店前三宮センター街側通」だっ三ノ宮駅の移転俯瞰すると、神戸の中心街は波止場のあった海岸通三丁目から旧市電ルートに沿って東遷してきた。引力となったのは鉄道駅である。もっとも明治・大正時代の三ノ宮駅は現在の800m西、今のJR元町駅の場所にあった。開業は明治7年(1874)で、新橋-横浜間に次ぐ全国2番目の路線(大阪‐神戸)の駅である。終点・神戸駅の1つ手前で開通当初からあった駅だ。ちなみに神戸駅は現在も東海道本線の終点である。た。老舗ベーカリーのドンク本店は今も同じ場所にある。大丸神戸店からトアロードを北上したところで、現在のターミナルである三ノ宮駅よりむしろ元町駅(旧三ノ宮駅)が最寄である。つまり戦前戦後にかけて街の中心が旧三ノ宮駅に近づいた。最高地価の場所は東にも2区画分移動しており、600m東の(現)三ノ宮駅の求心力も相当高かったことがうかがえる。神戸の街ができた頃、鯉川筋の東、居留地の北に位置する(現)三ノ宮駅前は市街地の外だった。徐々に市街化が始まり、明治38年(1905)、阪神電気鉄道(阪神電車)の開通に伴い終点「神戸駅」ができた。その後神戸市電に連絡するため滝道駅まで延伸する。専用軌道は2駅(約2.5km)手前の岩屋駅までで、そこから先は路面電車線だった。阪神急行電鉄(阪急)神戸線の開通は大正9年(1920)である。終点の駅名こそ「神戸駅」だったが、当時は現在の神戸三宮駅から2駅分手前、2.5km離れた王子公園(当時は関西学院原田キャンパス)の西側にあった。隣接して神戸市電布引線の終点「上筒井駅」があり、中心街に行くには市電に乗り換える必要があった。開業時、阪神の岩屋駅も阪急の神戸駅も神戸市境にあった。要するに私鉄2社は地上の専用軌道で神戸市内に入ることが許されなかった。昭和6年(1931)、国鉄の三ノ宮駅が現在地に移転し、旧三ノ宮駅を元町駅と改称した。都心直結を渇望していた私鉄2社は移転後の三ノ宮駅を目指し、阪神は地下線、阪急は高架線で乗り入れを図った。阪神電車は昭和8年(1933)6月、岩屋駅から神戸駅(現・神戸三宮駅)までの地下化を果たす。昭和11年(1936)3月には国鉄の旧三ノ宮駅の場所に延伸し元町駅を設置。元の神戸駅を三宮駅に改称した。その年の4月、阪急電車も高架方

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