ファイナンス 2023年3月号 No.688
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第37回 「兵庫県神戸市」図1 旧第一銀行(現・地下鉄みなと元町駅)275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)令和4年11月6日に筆者撮影 72 ファイナンス 2023 Mar.開港地の気風を受け継ぐ、人が主役の街づくり在日ビジネス基地たる居留地の存在開港にあわせ、欧米商社の駐在拠点として外国人居留地が設けられた。今でも地図をみればそれとわかる碁盤の目の整然な区画で、西の鯉川、東の生田川、北の西国街道に囲まれていた。川は後に暗渠となり、跡地が鯉川筋(メリケンロード)、フラワーロードになった。元の横浜正金銀行である神戸市博物館や、わが国最古の西洋式ホテルのオリエンタルホテルが面する京町筋が中心軸だ。幕末、勝海舟が幕府軍艦奉行の時代に整備された海軍操練所の施設を転用して居留地の波止場が整備され、敷地内には税関が置かれた。開港地神戸の歴史は大政奉還の後に始まった。瀬戸内航路の寄港地として古来あった港町は神戸ではなく、神戸からみて湊川を渡った西側の「兵庫」である。神戸は海外貿易を始めるにあたって開発された街だ。開港は慶応3年12月7日(1868年1月1日)。安政6年(1859)6月の横浜開港から既に9年が経っていた。この2か月前、徳川慶喜は京都二条城で政権を返上している。慶喜政権がダッチロールを繰り返す中、政権基盤を強化するため今でいえば解散総選挙に打って出たようなものだろうが信任を得られず、そればかりか、徳川不在の会議で新政権の骨格と人事が決められる事態に陥った。いわゆる王政復古のクーデターだが、これは神戸開港の2日後の出来事である。開港当時、わが国に海外貿易を担う事業者がおらず、例えば製品を輸出しようと思えば売込商を通じて居留地に駐在する欧米商社の日本駐在に持ち込む必要があった。いわゆる居留地貿易である。居留地は治外法権で、法を犯した外国人を日本の法律で取り締まれなかった。裁判はおろか捜査や逮捕、拘留もできなかったのが特徴だ。居留民から選出された代表を含めた「居留地会議」が警察を含む自治行政を行っていた。まさに日本の中の外国である。ちなみに北野の異人館街や南京町中華街は居留地ではない。これらは「雑居地」といい居留地の外側に設けられた居住可能区域だ。主な波止場は4つあり税関に隣接する居留地東端が第一波止場。第二から第四波止場は居留地の西側にあり、複数の突堤でひとまとまりの港湾を形成していた。海岸通は波止場に面し1丁目から6丁目まであった。その真ん中が3丁目である。ここには税関の出張所もあった。今でいえばポートタワーの最寄りである。貿易関連で栄えた海岸通に対し、その後背地の栄町通は銀行街になった。進出が最も早い銀行は三井銀行である。明治4年(1871)には三井組の神戸分店が波止場と栄町銀行街明治のビジネス街は居留地の門前にできた。地価が最も高い場所は波止場の前だった。明治17年(1884)の兵庫県統計書によれば神戸市街の最高地価は海岸通3丁目にあった。路線価でひもとく街の歴史

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