ファイナンス 2023年2月号 No.687
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産業道路プロフィール大和総研主任研究員 鈴木 文彦仙台市出身、1993年七十七銀行入行。東北財務局上席専門調査員(2004-06年)出向等を経て2008年から大和総研。近著に「公民連携パークマネジメント:人を集め都市の価値を高める仕組み」(学芸出版社)(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成。売場面積は1981年3月2日付日経流通新聞「特徴競う五つの商業核」による図2の範囲’37/11棒二森屋1.7万㎡’59/12彩華(さいか)’68/6和光五稜郭地区’80/8長崎屋1.5万㎡’80/10増床テーオー’81/3函館西武1.3万㎡'70/11 ホリタ’69/10移転丸井今井1.5万㎡’80/9イトーヨーカドー売場面積1.4万㎡美原地区 図4 1980年前後の大型店出店状況ファイナンス 2023 Feb. 65かかった。道外大手の進出も目立ってきた。ダイエーは昭和51年(1976)、ホリタを傘下に収め、市内にスーパーやコンビニの出店を進めていた。昭和54年(1979)、函館市街を遠巻きに走るバイパス道路「産業道路」の4車線化が完成する。翌年の8月、産業道路沿いに長崎屋、その1か月後にイトーヨーカドーが開店し、新たな郊外拠点の美原地区が起こった。さらに10月には五稜郭地区のテーオーデパートが増床している。その翌年の昭和56年(1981)3月には函館西武がテーオー向かいに開店した。大型店の売場面積がこの2年間で倍増したことになる。棒二森屋は地域一番店の地位を保っていたが、数にして同クラスの店舗が一度に3つ増えた。戦略転換を考えた棒二森屋は三越との提携を破棄し、あらためてダイエー傘下に入ることを決断。ダイエーから資本と経営人材を受け入れた。新体制を整え、昭和57年(1982)、本館の隣に若年層をターゲットにした新館ボーニ・アネックスを開業する。流行に乗りDCブランドにも力を入れた。それでも駅前勢の挽回に至らず、平成4年(1992)には最高路線価地点の座を「本町丸井今井函館店前電車通り」に譲ることになる。令和元年(2019)1月、棒二森屋が閉店した。既にさいか(元の「彩華」)デパートが平成10年(1998)7月、和光が平成25年(2013)10月に閉店しており、駅前の隆盛を支えた大型店は3店とも無くなった。都市型百貨店の一角を占めた西武函館店も平成15年(2003)8月に閉店している。市内の百貨店は丸井今その典型が金森赤レンガ倉庫だ。昭和63年(1988)に「伝統的建造物」に指定されたのを契機に一部をホール・商業施設に改装し「函館ヒストリープラザ」となった。平成6年(1994)には隣の倉庫を改装し金森洋物館がオープン。平成15年(2003)には日本郵船から倉庫が譲渡され「BAYはこだて」となった。「金森赤レンガ倉庫」が総称となったのはこの頃である。屋号から想像できるように棒二森屋とルーツを同じくする。金森の事業は明治に2系統に分かれ本家が渡辺、分家は金森を社名とした。渡辺が百貨店の系譜なのに対して、金森が回漕業や倉庫業を継承。後に金森赤レンガ倉庫を経営する金森商船となる。隣接して、明治44年(1911)建築の旧函館郵便局を改装したオルゴール・ガラス館「はこだて明治館」もあり、ベイエリアとしての一体感を構成している。十字街のイベントとしては「バル街」が知られている。まずは前売りチケット制の綴りを購入。旧市街の街並みが残る界隈の飲食店をスペインはバスク地方のバル街に見立て、食べ歩き飲み歩きを楽しむ趣向だ。今や全国各地で開催されている「バル街」だが、これは平成16年(2004)に当地で開催したイベントが発祥である。井函館店を残すのみである。戦前末広町に店を構えた銀行もすべて移転あるいは撤退した。青森銀行が平成25年(2013)まであったが、店舗内店舗方式で五稜郭地区に移転している。大都市のレガシーは観光資源に中心街が郊外に移転して久しく、函館がかつて十指に入る拠点都市だった頃の喧騒は末広町・十字街にない。それでも銀行や百貨店など都市施設は残っており、街全体が近代建築をテーマとした立体美術館のようだ。かつてのオフィスが博物館やホテルにリノベーションされて観光資源になっている。

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