ファイナンス 2023年2月号 No.687
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(出所)函館市図3 旧丸井今井百貨店(函館市地域交流まちづくりセンター) 64 ファイナンス 2023 Feb.駅前の時代函館の街は陸繋島の港から始まり、砂洲を渡って平野に至る歴史を辿っている。俯瞰すれば十字街の発展もこの流れに位置づけられる。主要交通手段が舟運から鉄道に変化するに従って街の中心も移り変わる。函館の場合、連絡船の乗り場に表れた。函館駅が現在地に開業したのは明治37年(1904)で、当初は北海道鉄道の駅だったが、明治40年(1907)に国有化される。その翌年に青函連絡船が就航した。ここで、函館大正期を通じて函館の人口は倍増。街の拡大とともに新たな中心が十字街方面にできてきた。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書を参照すると、最高地価は「末廣町十字街角」だった。今に残る十字街角のランドマークが、大正12年(1923)築の鉄筋コンクリート造3階建、旧丸井今井百貨店函館支店だ(図3)。現在は「函館市地域交流まちづくりセンター」となっている。丸井今井の本拠は札幌、創業は明治5年(1872)で、明治25年(1892)に函館に今井呉服店を出した。百貨店に転換したのは大正5年(1916)である。戦前、函館には他に2つの百貨店があった。1つは末広町の金森森屋百貨店、もう1つが十字街と駅前の間にあった棒二荻野呉服店である。金森森屋百貨店の源流は、長崎出身の渡辺熊四郎(初代)が明治2年(1869)に開業した洋品店の「金森森屋洋物店」である。明治13年(1880)、舶来品を扱う店舗「金森洋物店」を出店した。今風にいえばセレクトショップだ。防火レンガ作りの和洋折衷の建物は現存し、函館市の郷土資料館として使われている。3代目の渡辺熊四郎のとき、大正14年(1925)、末広町と日和坂の角地に鉄筋コンクリート造3階建の新店舗を建築。通り沿いに増えた金森の店舗をまとめて百貨店を開業した。昭和5年(1930)、隣地に7階建の新棟を増築する。棒二荻野呉服店は明治22年(1889)の創業で、滋賀県出身の荻野儀平が立ち上げた。長男の清六の代に拡大を進め、昭和6年(1931)には建物をいったん解体して4階建の百貨店を新築した。シャンデリア付きの催事場や食堂、エレベーターを備えていた。の交通拠点が東濱桟橋から函館駅に代わった。駅前には地域一番店の棒二森屋百貨店があった。昭和11年(1936)に、金森森屋と棒二荻野呉服店が合併し、翌年10月に5階建ての百貨店を立ち上げた。駅前は戦後急速に発展を遂げ、駅前通り周辺に昭和34年(1959)に彩華デパート、昭和43年(1968)に和光が開業した。筆者が調べた範囲で最も早い最高路線価は昭和44年(1969)で、そこには「松風町2-7富士銀行」とあった。元々末広町にあった富士銀行(安田銀行)が移転した先である。棒二森屋と同じ駅前通りだが、駅からやや離れており、向かいに彩華デパートがあった。周辺には映画館が多くあり今に至る大門繁華街を形成していた。昭和48年(1973)には「松風町渡辺時計店駅前通り」に移る。渡辺時計店は棒二森屋と同じブロックにあった。1980年前後の変化はさらに大きかった。函館に隣接する旧亀田市は郊外拠点として発展の兆しを見せていたが、函館からみれば郊外流出を意味していた。この流れは昭和48年(1973)の両市合併を機に拍車が五稜郭地区から産業道路へ函館の場合、駅前から3kmほど離れた五稜郭地区に中心街が発生した。昭和44年(1969)10月、十字街のランドマークだった丸井今井百貨店が、函館市電の五稜郭公園前駅の角地に移転する。昭和45年(1970)には地元スーパーのホリタがデパート型の基幹店を向かい側に出店した。駅前勢の棒二森屋は昭和46年(1971)、三越との提携で差別化を図る。

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