ファイナンス 2023年2月号 No.687
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第36回 「北海道函館市」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)函館市北方民族資料館図1 旧日本銀行函館支店(函館市北方民族資料館) 62 ファイナンス 2023 Feb.東北・北海道最大都市のレガシー末広町銀行街経済の中心は坂の下の港にあった。明治4年(1871)、青函航路の発着点として東濱桟橋が設置された。現在は旧桟橋と呼ばれているが、明治41年(1908)に青函連絡船が就航し、明治43年に函館駅前に連絡船桟橋が整備されたことにちなむ。北海道の渡島半島が二股に分かれた東側が亀田半島。この亀田半島からさらに突き出た函館半島は、夜景スポットで有名な函館山を擁する陸繋島と、陸繋島と函館平野をつなぐ砂洲からできている。はじめに陸繋島の入り江に面した側の麓に街ができた。函館の開港は安政元年(1854)の日米和親条約に遡る。安政の五か国条約に登場する5港で最も早い。隔離するのに都合がよいからか、幕府政権下で開港した横浜、長崎と同じく半島状の地勢なのが興味深い。開港時は「箱館」だったが、新政府の代に「函館」となった。函館の街の中心軸が基もとい坂である。基坂の頂上にある元町公園の区画に歴代の政庁があった。幕府政権下の箱館奉行所、次いで新政府の開拓使函館支庁、函館県庁、北海道函館支庁と行政組織に従って名称も変遷したが一貫して函館の行政中心地だった。現存する洋風建築は明治42年(1909)に建てられたもので、支庁庁舎としては昭和25年(1950)まで使われた。明治44年(1911)の地価修正函館市街土地明細鑑によれば、地価を示す土地等級が最も高かったのは東濱町8、9番だった。東濱桟橋の向かい側である。東濱桟橋から山手に通じる道を日和坂という。坂の上にある邸宅が観光名所になっている。東濱町8、9番の所有者だった明治函館の財界人、相馬哲平の屋敷である。東濱町の1筋内側の大通りである末広町には銀行が多かった。現存する近代建築に着眼して説明すると、まずは基坂の下に市の北方民族資料館がある。元を辿れば三井銀行があった場所だ。函館初の銀行で明治9年(1876)に開業した。明治26年(1893)に日本銀行が入り、三井銀行は別の場所に移転した。そして明治38年(1905)に撤退する。現存する建物は日本銀行の3代目店舗で大正15年(1926)の建築。昭和63年(1988)に駅前地区に移転するまで営業していた。函館支店は大阪支店に次ぐ3番目の地方拠点で札幌、根室、小樽と同時の進出だった。当初は出張所だったが、明治28年(1895)に道内唯一の支店に昇格した。八幡坂の角にある銀行建築は大正15年(1926)に建てられた百十三銀行の本店だ。同行は明治11年(1878)に設立された第百十三国立銀行を源流とする。函館いや北海道に本店を置いた初めての銀行でもある。この場所の由来を辿ると、元は明治12年(1879)に設立された函館2つめの国立銀行、第百四十九国立銀行があった。閉店後、明治29年(1896)に開業し路線価でひもとく街の歴史

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