ファイナンス 2023年1月号 No.686
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小■税関支署 管理課長阿部 史典○大正期〜北のウォール街○昭和初期〜斜陽のまち○昭和末期から令和〜観光都市へ 83 ファイナンス 2023 Jan.元々鰊の漁場として知られる小樽が近代化へと進む契機となったのが北海道の内陸部から運ばれる石炭の輸送のため、明治13年に北海道初の鉄道である「官営幌内鉄道」が敷設されたことです。小樽港は北海道の拠点である札幌から近く、天然の良港という地の利を生かし鉄道敷設の起点となりました。石炭は小樽港から国内各地だけでなく、海外に向けて輸送され、近代産業の勃興に貢献しました。小樽に税関が設置されたのもこの時期で、明治22年には小樽港は石炭のみを輸出品目とする「特別輸出港」に指定されました。明治後期には北海道の資源の物流拠点として、港湾の発展は隆盛を極めました。1.はじめに小樽税関支署は、明治11年に函館税関小樽出張所として設置され、明治30年に小樽税関支署として改称され今に至ります。管轄は北海道の2市13町6村です。支署のある小樽市は、北海道西海岸のほぼ中央に位置し、東西に長く広がっています。東西約36キロメートル、南北約20キロメートルで、市街地の一方が日本海に面し、他の三方を山々に囲まれた坂の多い町です。小樽の語源はアイヌ語のオタ・オル・ナイでオタは砂浜、オルは中、ナイは川又は沢と訳され「砂浜の中の川」という意味になります。もともとがアイヌ語なので穂足内、尾樽内、小垂内などと書かれたこともあったそうです。明治になり蝦夷が北海道となったときに小樽内から内がとれて小樽となりました。2.小■市の沿革○明治期〜小■港の近代化大正時代に入っても小樽の好景気は続きました。小樽からアメリカ・ヨーロッパへの定期航路もでき、国際的な港湾都市として成長も遂げ、日本銀行を始め多数の銀行、商社、海運業者が進出し「北のウォール街」と呼ばれるようになりました。大正9年の第1回国勢調査では北海道では函館に次いで札幌を上回る第2位で全国でも13位の人口規模を誇りました。日本を代表するプロレタリア文学作家の小林多喜二は著作「故里の顔」で北日本随一の都市となった小樽について「北海道の心臓である」と表現しました。昭和初期から戦後になると小樽は衰退の兆しが見え始めます。敗戦による樺太の喪失、特産品である鰊の商品価値の減退と不漁だけでなく、石炭から石油へのエネルギー転換による港での石炭取扱い量の急速な減少などにより港勢は失速しました。さらには札幌への内地の商社の出店ラッシュも始まり、小樽からも銀行、商社、海運業者などの商業機能の札幌への移転が相次ぎました。主要産業を失い昭和40年代には小樽は「斜陽のまち」と呼ばれました。現在の観光都市となった契機は、昭和末期に埋め立てが計画された小樽運河の保存運動でした。当時小樽運河は、艀による物資運搬の役割を終えて実用的な役割を失いヘドロがたまり荒廃が進んでいました。そこで、車社会への対応などのために、運河を埋め立てて道路にする計画が持ち上がったのですが、市民の間から運河の歴史的価値を見直し、貴重な文化遺産として保存を求める運動がおこりました。10年にも及ぶ保「北のウォール街」から 「斜陽のまち」、そして 観光都市としての再生小■市

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