ファイナンス 2023年1月号 No.686
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図3 広域図(出所)地理院地図vectorに筆者が加筆して作成’06-イオンモール高崎70,600㎡前橋IC’93-前橋サティ(現・前橋リリカ)店舗面積21,707㎡県庁群馬本店’07-けやきウォーク前橋39,511㎡図2の範囲 53 ファイナンス 2023 Jan.ルを避けて「前三」にした経緯がある。前三は開店当初から「三越グループ」を前面に出し、初代社長も三越OBだった。前橋に都市型百貨店がないことから始まった百貨店プロジェクトだったが、前三開店に合わせたように出店ラッシュが始まった。商工会議所内にデパート設置準備委員会が立ち上がった昭和36年(1961)に十字屋が開店。その翌年、地元のスズラン百貨店が本館を新築し、前三が開店した昭和39年(1964)には長崎屋が進出した。昭和43年(1968)に丸井、昭和47年(1972)にニチイが開店するなど競争環境は一気に厳しくなる。その後、昭和50年(1975)に西友ストアーができた。後の前橋西武である。この年の決算で1億9千万円の欠損が生じた前三は三越との提携強化を図る。三越からの仕入を増やし、自社従業員を三越に送り販売実習させるなどした。昭和54年(1979)には三越が前三百貨店の株式の過半数を買い取り子会社化。その後、1階から4階フロアに営業面積を縮小するが経営悪化に歯止めがかからず昭和60年(1985)に閉店した。地元百貨店の破たんと車社会化地元百貨店の破たんに同業や市民は衝撃を受けた。前三閉店に前後して昭和59年(1984)に長崎屋、昭和61年(1986)に丸井が撤退している。前三の破たんには駐車場や規模、営業力の問題が取りざたされたが、ふりかえれば前橋の中心商業自体が縮小傾向にあったようにも思われる。前橋の場合、車社会の到来が他の地方都市より10年早く生じていた。昭和55年(1980)年、群馬県の世帯当たり乗用車保有台数は47都道府県で最も早く1台を超えていた。1台超えとなった都道府県がようやく10を数えたのは10年後の平成2年(1990)。車社会化が進んだのは90年代で、さらに10年後の平成12年(2000)で39県となった。群馬県の乗用車普及率は昭和45年(1970)から平成10年(1998)まで47都道府県中1位だった。現在は福井、富山、山形に次ぐ4位で、世帯当たり台数は1997年以来1.6台である。郊外大型店の状況をふりかえると平成5年(1993)、グンゼ前橋工場敷地にグンゼ開発がショッピングモール「前橋リリカ」を開発。中心市街地にあったニチイが入居し前橋サティとなった。これをさきがけに郊外大型店の出店が続き、かつ大型化していった。ここで県庁所在地の最高路線価ランキングを見てみる。図4に群馬県の順位の変遷を示した。まずは80年代の下落に目が留まる。全国に先駆けて群馬県の乗用車普及率が高まった時期に重なる。90年前半の地価高騰期にいったん持ち直したが、90年代後半に再び下落し、今度は最下位まで落ち込んだ。直近は45位である。前橋市は確かに他の地方都市に比べ車社会の到来が10年程度早かった。とはいえ車社会化に伴う空洞化は他の地方都市も同じ経過を辿ったはずだ。これは前橋に「駅前」がないことが反映しているのではないか。前橋の「駅前」のポジションは高崎が担っていると考えられる。平成9年(1997)、順位を下げる直前の前橋市の最前橋・高崎エリアの「駅前」の高崎駅最高路線価地点は平成2年(1990)、「本町2丁目前橋東邦生命ビル前本町通り」に移る。前橋の場合、他の地方都市とは違って最高路線価地点が駅前ではない。駅前には昭和62年(1987)にイトーヨーカドーが出店。平成22年(2010)に閉店しEKITA前橋になった。とはいえ特に賑わっているふうでもない。駅前とはいえ前橋駅には新幹線が通らない。

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