ファイナンス 2023年1月号 No.686
57/96

跡 足利丸井跡麻屋跡日銀跡桑町竪町連雀町ブルーボトル図2 市街図ファイナンス 2023 Jan. 52(出所)筆者作成群馬貯蓄跡群馬不動→協和跡商工中金県庁鈴半スズランスズラン百貨店スズラン跡前三跡埼玉跡りそな立川町十字屋跡ニチイ跡長崎屋跡旧西武安田跡みずほ勧銀跡群馬生糸改所跡群馬跡旧西武白井屋東和本店広瀬川馬場川通り本町通り萱町榎町横山町紺屋町39跡足利跡旧横浜第二跡中央前橋駅街道筋行で、生糸貿易が元々背景にあった。その後、第二国立銀行は国立銀行制度の満了とともに第二銀行となり、昭和3年(1928)横浜銀行の前身の横浜興信銀行に営業譲渡された。地元の国立銀行は、第二国立銀行が前橋支店を出した2年後の明治11年(1878)創業である。第三十九国立銀行といい、県内一番行である群馬銀行の源流である。本店は生糸改所の交差点向かい側にあった。その後、昭和初期の一県一行主義を背景に県の主導で立ち上げた群馬大同銀行に一体化する。昭和27年(1952)、生糸改所の場所に本店を新築。昭和30年(1955)に群馬銀行に改称した。昭和47年(1972)に本店を郊外に移した後は「前橋支店」となった。現在、群馬銀行前橋支店は「前橋プラザ元気21」の向かいにある。ここは明治31年(1898)に群馬県農工銀行ができた場所だ。その後営業が引き継がれて日本勧業銀行になった。同じ並びのみずほ銀行前橋支店の前身は群馬商業銀行である。織物産地の伊勢崎市が本店の銀行で、明治33年(1900)創業。前橋支店はその翌年に開店した。同行は大正12年(1923)に安田銀行に統合される。戦後は富士銀行に改称した。元々地元行だった経緯から、「富士銀行80年史」の昭和35年(1960)時点でも前橋、高崎、伊勢崎、桐生に支店があった。県境を接する栃木県の一番行、足利銀行は両毛地域を地盤とし、昭和42年(1967)に宇都宮市に移すまでは足利市に本店があった。桐生支店が最初の支店で今も桐生市の指定金融機関を務めている。同行が前橋に進出したのは大正11年(1922)で、宇都宮支店の出店より2年早い。商業中心地の桑町他方、明治から昭和にかけて前橋で最も地価が高かった場所は桑町だった。明治期の群馬県統計書、大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書でも最高地価は桑町とある。戦後も変わらず、昭和38年(1963)の最高路線価は「桑町2丁目鈴半かばん店前中央商店街通」だった。鈴半かばん店と同じ交差点に麻屋百貨店があった。昭和9年(1934)に開店した前橋初の百貨店である。アール・デコ様式を取り入れた近代建築で平成19年(2007)には国の登録有名文化財に指定された。平成23年(2011)に解体され現存しない。現在は周辺を含め更地(前橋中央イベント広場・駐車場)になっている。麻屋百貨店は昭和39年(1964)に閉店し、入れ替わりで前まえ三さん百貨店が開店した。街おこしの一環で市と商工会議所が主導して立ち上げた百貨店だ。とはいえ百貨店の運営ノウハウがなかったため、同業最大手の三越に指導・協力をあおいだ。背景には、前橋商工会議所の伊藤正直会頭と三越の松田伊い三さ雄お常務(後の社長)が香川県の旧制三豊中学で軍事教練をともにし、慶応大学の同窓だった縁があった。大図軍之丞(編)「前三百貨店誕生の記」(1971)によれば、当初は「丸越」という屋号を考えていた。マルに越の字が入る三越の商標を読んだものだが肝心の三越に断られ「丸まる三みつ」にした。しかしそれでは当時仙台にあった百貨店の「丸光」と同じ音になる。後日のトラブ

元のページ  ../index.html#57

このブックを見る