ファイナンス 2023年1月号 No.686
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第35回 「群馬県前橋市」図1 段丘に沿った本町通り275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D(出所)国土地理院地図 51 ファイナンス 2023 Jan.生糸でつながる前橋と横浜前橋の街の中心軸が本町通りである。城下町の町割りに似つかわず緩やかにカーブを描いている。これは本町通りが河岸段丘の上に沿って走っているからだ(図1)。本町通りに対し、その1筋北の馬場川通りから北は一段低くなっている。本町は生糸の集散地だった。文久元年「つ:つる舞う形の群馬県」、群馬県の名所旧跡や偉人を札にした「上毛かるた」に「ま:繭と生糸は日本一」と読まれる札がある。群馬県は言わずと知れた養蚕・製糸業の産地である。「け:県都前橋生い糸との市まち」の札で登場する前橋市は特に生糸の集散地として栄えた。商都高崎に対し前橋は行政機関が集中する政治都市のイメージがあるが、むしろ由来は商業だ。歴史を遡れば城下町で、前橋城が現在の県庁の場所にあったが、利根川を背にする前橋城が度々水害を被るため藩庁が川越に移された。前橋城は明和6年(1769)に廃城となるが、その約100年後、大政奉還のあった慶応3年(1867)に再建され藩庁も前橋に帰ってきた。背景には貿易で富を成した生糸商人らを中心とする帰還運動と寄付があった。(1861)、本町通りの複合施設「前橋プラザ元気21」の場所に藩営の生糸改あらためしょ所が設立された。上質の証として前橋ブランドを付す施設だ。周辺の農家あるいは町場、今風にいえば在宅ワークで取られた生糸はここで検査を受けなければならなかった。生糸改所は廃藩後も続き、明治11年(1878)に白亜の洋風建築に建て替えられた。生糸は前橋の荷主(産地問屋)が集荷し、横浜に出荷された。横浜を終点に日本の「シルクロード」と呼ばれる生糸の流通路がいくつかあるが、前橋は始点の1つである。鉄道以前の時代は利根川舟運で運んでいたが、開通後は現在の高崎線に乗せ、赤羽駅から埼京線~山手線に沿って東京都心を迂回。品川から京浜東北線を経由して今の桜木町駅である初代横浜駅まで運んだ。日本鉄道の路線が高崎駅から北進し前橋に到達したのは明治17年(1884)。開業当初の前橋駅は利根川の手前にあった。このような経緯で前橋は横浜とのつながりが深い。昨年、横浜銀行前橋支店が店舗内店舗の形で高崎支店内に移ったが、それまでは本町にあった。これは源流を辿ると第二国立銀行の前橋支店に行き着く。第二国立銀行に限らず、生糸改所がある本町通りで開業する銀行が多かった。前橋の産地問屋(荷主)が荷為替を組み、前貸金融を受けるためである。前橋と横浜のモノとカネは貿易と同じ仕組みで流れていた。横浜が本店の第二国立銀行は前橋で初めて開業した銀行である。明治2年(1869)に設立された横浜為替会社が前身で、明治7年(1874)銀行に改組。明治9年(1876)に前橋支店を出した。群馬県史にある横浜為替会社の資料によれば、明治6年(1873)当時、生糸融資の大口が荷主最大手の下村善太郎だった。下村は初代前橋市長でもある。移出先は横浜の輸出商社(売込商)の茂木惣兵衛だった。第二国立銀行は売込商の茂木惣兵衛や原善三郎が設立した銀民間主体で再びめぶくシルクロード始点の街路線価でひもとく街の歴史

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