図3 呉服町名店街(出所)令和4年10月30日に筆者撮影 34 ファイナンス 2022 Dec.る。静岡駅は明治22年(1889)の開業。明治41年(1908)には静岡鉄道の新静岡駅が開業した。開業時は鷹匠町駅といった。茶葉を輸出するため、産地問屋が集積していた西郊の安西地区と積出港のある清水を結んでいた。新静岡駅の先は路面電車になっており、大正11年(1922)に新静岡駅から国鉄静岡駅前まで、昭和4年(1929)には同じく安西駅までの路線が開通した。昭和5年(1930)、駅前大通りの御幸通りが開通。昭和7年(1932)には御幸通りに面して、名古屋に本店を構える松坂屋百貨店が「東海髄一の実用百貨店」と銘打って開店した。鉄筋コンクリート造6階建で、「百貨店の実相」によれば営業面積は6,541m2。田中屋の倍を上回る規模だった。戦後、静岡で最も地価が高い場所が札ノ辻から駅前に移った。最高路線価を調べると、記録に残る最初の地点名は昭和35年(1960)の「紺屋町八丁目内野百貨店前駅前通」だった。その後、特に昭和40年代、駅前には大型店の進出が相次いだ。昭和44年(1969)に丸井が進出。昭和45年(1970)、西武百貨店の静岡店が売場面積19,845m2で開店した。翌年には松坂屋が増床し売場面積が17,425m2となる。影響を受けたのは札ノ辻の田中屋である。売場面積が9,063m2で駅前勢に水をあけられた。そこで共同仕入れでつながりがあった伊勢丹に支援を仰ぐ。昭和46年(1971)年、腕利き社員の派遣を受けるとともに、婦人服等を中心に品揃えを強化した。年末には伊勢丹から4000万円の出資を受け、翌年「田中屋伊勢丹」に改称。伊勢丹のイメージを前面に都市型百貨店に向けて舵を切る。包装紙や紙袋も伊勢丹と同じデザインに変えた。昭和51年(1976)には後に松屋の再建で知られる「ミスター百貨店」、山中鏆かん専務が出向。田中屋伊勢丹の代表取締役に就きらつ腕をふるった。並行して隣接地の買収を進め、昭和52年(1977)に22,968m2に増床し地域一番店になった。その4年後、田中屋伊勢丹は現名称の静岡伊勢丹に改称する。前の年の昭和55年(1980)には伊勢丹から8億円を調達し伊勢丹の子会社となっていた。最高路線価地点が「紺屋町鈴や店前ゴールデン街通り」に移転したのもこの年だ。ここは駅前と札の辻の中間点である。田中屋の復活とともに呉服町界隈の吸引力も回復したようだった。中心街が賑わいを保つ理由90年代以降も駅前は発展を続けている。平成8年(1996)、松坂屋が本館北側に北館を新築、売場面積25,452m2となり地域一番店に返り咲いた。同じ年、北館の隣に丸井のB館「けやきプラザ」が完成する。松坂屋の北館から静岡鉄道の新静岡駅に至るけやき通りに動線ができ、若者向けの街になってきた。昭和59年(1984)に竣工した再開発ビル、静岡伝馬町プラザビルにはユニー系の店舗が入っていたが、平成19年(2007)にSHIZUOKA109となる。同年、紺屋町の西武百貨店がパルコに転換した。その後SHIZUOKA109は平成29年(2017)に東急スクエアに転換し今に至る。最高路線価地点の名称にある「ゴールデン街」は紺屋町の真下の地下街である。最高路線価地点がゴールデン街に移った昭和55年にガス爆発事故が起き、15人死亡223人負傷の大惨事となった。一方、札ノ辻を中心とする呉服町界隈も負けていない。令和4年の最高路線価は「紺屋町名店街呉服町通り」である。地点名は変わったが場所は40年前から変わっていない。価格は1m2当たり114万円で呉服町の一部もかぶっている。なお静岡伊勢丹前は同74万円で、駅前で大型店が集まるけやき通りが同99万円である。他の都市で空洞化が進む中での健闘の背景の1つは、90年代以降の車社会化の影響が他の都市に比べれば強くないことだ。例えば昭和52年(1977)、イトーヨーカドーが郊外に35,000m2のショッピングセンターを計画した。ところが昭和61年(1986)に出店した
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