ファイナンス 2022年12月号 No.685
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名古屋跡パルシェ安田貯蓄跡愛知跡遠州跡静岡跡音楽館江川町青葉通り札ノ辻町七間町本通■丁目(青葉緑地)新通坤櫓浅間神社一の鳥居清水■■跡呉服町タワー■丁目静岡日銀天守旧勧銀みずほ本館不動跡■丁目(旧)伊勢丹スルガ駿府城公園県庁市役所呉服町 ■ ■■ ■■常磐公園最高路線価新静岡駅■■■■御幸通り紺屋町両替町セノバ東急スクエアパルコ鈴や跡丸井跡松坂屋内野ビル線路跡街道筋図2 市街図ファイナンス 2022 Dec. 33(出所)筆者作成宅地の最高地価の地点を静岡県統計書で調べると、記録のある年に限るものの、明治14年から17年および明治22年以降は呉服町4丁目あるいは5丁目だった。ただし明治18年から21年までは本通1丁目だった。現在、呉服町と本通の交差点の角地に静岡の地域一番行の静岡銀行の本店がある。現存する建物は昭和6年(1931年)に完成した鉄筋コンクリート造3階建。4本のドリス式の列柱が特徴で、これも中村與資平の設計で、登録有形文化財である。完成時は三十五銀行の本店だった。源流を辿れば静岡銀行は明治10年(1877)に設立された第三十五国立銀行である。創業地は本通2丁目で、明治16年(1883)に現在地の向かい側の角地に移ってきた。三十五銀行に改称したのは国立銀行制度が満了したからだ。その後、昭和12年(1937)に旧静岡銀行(現存する静岡銀行とは別法人)と合併し静岡三十五銀行となった。戦中の昭和18年(1943)に遠州銀行と合併して静岡銀行となる。遠州銀行は浜松の一番行で大正9年(1920)の設立。大正14年(1925)、呉服町3丁目に静岡支店を構えた。出店地は現在区画全体が静岡伊勢丹になっている。大正に入ると最高地価は呉服町3丁目となる。呉服町3丁目には大正6年(1917)に進出した愛知銀行、その翌年に進出した名古屋銀行の静岡支店があった。いずれも本店は名古屋で、昭和16年(1941)に合併して東海銀行になった。今の三菱UFJ銀行で、再編前は札ノ辻の角地に店を構えていた。愛知銀行のあった場所で、元を辿れば愛知銀行が営業を譲り受けた掛川銀行が明治27年(1894)から営業していた。札ノ辻の角地には不動貯金銀行もあった。大正9年(1920)に進出した安田貯蓄銀行と合併し、戦後、協和銀行となった。今のりそな銀行であるが静岡支店は駅前に移転し、その後撤退した。現在のみずほ銀行静岡支店の場所には日本勧業銀行があった。前身は静岡県農工銀行で大正11年(1922)に合併された。戦後、第一勧業銀行の時代を経て現在に至る。沼津市に本店を構えるスルガ銀行は大正12年(1923)の進出。両替町の静岡実業銀行を合併した。当時は漢字で「駿河銀行」だった。統計書によれば最高地価は昭和7年から11年まで札ノ辻町だった。大正15年(1926)の大蔵省土地賃貸価格調査事業報告書によれば、静岡市の最高の賃貸価格は「札ノ辻角」である。現在、札ノ辻の角地の区画の1つを静岡伊勢丹が占めている。明治4年(1871)に創業した呉服店の田中屋が源流である。田中屋は静岡伊勢丹の本通に近いほう、遠州銀行の隣にあった。昭和6年(1931)に静岡初の百貨店を開業する。4階建の洋館だった。昭和10年(1935)刊行の百貨店事業研究会「百貨店の実相」(東洋経済新報社)によれば営業面積は2,940m2(原本は坪表記)だった。駅前の攻勢他の都市と同様、静岡の街も鉄道開通の影響を受け

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