第34回 「静岡県静岡市」第34回 「静岡県静岡市」 碁盤の目は主に商人地である。道の両側で組織されひつじさる275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,510C1,520C400D1,200C370D400D320D320D1,090C1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440Dた堀のライン。背後の身延山地、そして右奥に座す富あったのではないか。正面の天守と脇の櫓、程よく傾士山の構図があまりにも絵になるからだ。 いた堀のライン。背後の身延山地、そして右奥に座す富士山の構図があまりにも絵になるからだ。街の中心は本通~呉服町 有形文化財である。 町通である。本通から江川町まで6つの節に分かれ1丁目から6丁目まであった。 点を静岡県統計書で調べると、記録のある年に限るものの、明治14碁盤の目の中心が「札の辻」である。札の辻を通る(出所)Google Earthの画像に筆者が図形を加筆して作成。図中の“△”は天守と坤櫓を表現(出所)Google Earthの画像に筆者が図形を加筆して作成。図中の”△”は天守と坤櫓を表現 Sannkaku 令和5年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主令和5年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公、徳川家康が豊臣政権の命で江戸に移封される前人公、徳川家康が豊臣政権の命で江戸に移封される前の居城が駿府城である。築城は天正13年(1585)にの居城が駿府城である。築城は天正13年(1585)に始まった。家康は将軍職を秀忠に相続して隠居の身と始まった。家康は将軍職を秀忠に相続して隠居の身となり、慶長12年(1607)に駿府城に戻ってきた。帰なり、慶長12年(1607)に駿府城に戻ってきた。帰還後の大改築では新たな天守も構えたが寛永12(1635)還後の大改築では新たな天守も構えたが寛永12年に火災で焼失。その後再建されなかった。 (1635)年に火災で焼失。その後再建されなかった。碁盤の目の城下町を貫く東海道は街中に5つの曲が碁盤の目の城下町を貫く東海道は街中に5つの曲がり角を持つ。京都方面から上る旅人目線で説明すると、り角を持つ。京都方面から上る旅人目線で説明する安倍川を渡河してすぐ城下町に入る。元々の街道筋はと、安倍川を渡河してすぐ城下町に入る。元々の街道1筋西側だったが、城下町の造成にあたって現在の通筋は1筋西側だったが、城下町の造成にあたって現在りに付け替えられた。元の街道筋を「本通」というのの通りに付け替えられた。元の街道筋を「本通」といに対し、付け替え後の街道筋を「新通」という。図1うのに対し、付け替え後の街道筋を「新通」という。はGoogle Earthの画像から建物の3D表示を外した図1はGoogle Earthの画像から建物の3D表示を外しものだ。新通に立って前を向くと視線の先に天守が位たものだ。新通に立って前を向くと視線の先に天守が置する。いざ城下町に入らんとする旅人はこのような位置する。いざ城下町に入らんとする旅人はこのよう風景を見ていたのではないか。本丸を堀が三重に囲んな風景を見ていたのではないか。本丸を堀が三重に囲でいるが、城下町のグリッドと並行する外堀の正中線んでいるが、城下町のグリッドと並行する外堀の正中に対し、1つ内側の中堀の正中線が若干斜めにずれて線に対し、1つ内側の中堀の正中線が若干斜めにずれており、中堀の坤ひつじさる櫓が天守に並んで見える。死角をおり、中堀の坤くらない防衛上の工夫だろうが、景観面の工夫でもあつくらない防衛上の工夫だろうが、景観面の工夫でもったのではないか。正面の天守と脇の櫓、程よく傾い図1 東海道から見た駿府城の景観図1 東海道から見た駿府城の景観 櫓が天守に並んで見える。死角をつ 32 ファイナンス 2022 Dec.街の中心は本通〜呉服町たコミュニティを単位に「駿府九十六ヶ町」を構成し碁盤の目は主に商人地である。道の両側で組織されていた。明治21年(1888)の市制公布と同時に誕生たコミュニティを単位に「駿府九十六ヶ町」を構成しした初代静岡市の市域も駿府九十六ヶ町の範囲だった。ていた。明治21年(1888)の市制公布と同時に誕生今でこそ全国で5番目に広い静岡市だが、現在の中心した初代静岡市の市域も駿府九十六ヶ町の範囲だっ市街地も基本的に駿府九十六ヶ町を継承している。さた。今でこそ全国で5番目に広い静岡市だが、現在のらに狭い中心街を指すこともあるが、地元の人々は親中心市街地も基本的に駿府九十六ヶ町を継承していしみを込めて「おまち」と呼ぶ。 る。さらに狭い中心街を指すこともあるが、地元の人々は親しみを込めて「おまち」と呼ぶ。南北軸が札ノ辻町、七間町の通りで東海道と重なる。碁盤の目の中心が「札の辻」である。札の辻を通る東海道は新道からクランクし七間町を北上。札ノ辻で南北軸が札ノ辻町、七間町の通りで東海道と重なる。向きを変え呉服町に沿って進む。明治以降は南北軸の東海道は新道からクランクし七間町を北上。札ノ辻でつきあたり、いわゆる「お誕生席」に静岡県庁が鎮座向きを変え呉服町に沿って進む。明治以降は南北軸のする。クラシカルな外観の県庁舎は昭和12年(1937)つきあたり、いわゆる「お誕生席」に静岡県庁が鎮座の竣工で鉄筋コンクリート造4階建。コンクリート造する。クラシカルな外観の県庁舎は昭和12年(1937)りのビルに瓦屋根を載せた帝冠様式が特徴の和洋折衷の竣工で鉄筋コンクリート造4階建。コンクリート造だ。浜松出身の建築家、中村與資平の設計で国の登録りのビルに瓦屋根を載せた帝冠様式が特徴の対して東西軸は呉服和洋折衷だ。浜松出身の建築家、中村與よ資し平へいの設計で国の登録有形文化財である。対して東西軸は呉服町通である。本通から宅地の最高地価の地江川町まで6つの節に分かれ1丁目から6丁目まであった。 路線価でひもとく街の歴史路線価でひもとく街の歴史 歴史を活かしたコンパクトシティ歴史を活かしたコンパクトシティ
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