ファイナンス 2022年11月号 No.684
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(写真提供:奄美市)(沖永良部島(知名町)の慰霊碑)(奄美市(らんかん山)の慰霊碑)〔奄美黒糖焼酎〕大島 84 ファイナンス 2022 Nov.国税庁は酒類業を所管しており、酒類業の健全な発達を使命として産業育成に取り組んでいます。その中で、国内において、奄美群島のみ製造を許可しているのが黒糖焼酎です。奄美における正確な焼酎製造の始まりは不明ですが、焼酎の製造技術は、琉球から奄美を経て16世紀に薩摩に入り、さらに北上し日向や球磨地方へ伝わったと言われています。江戸時代、書物「南島雑話」によれば、シイの実や粟、ソテツを材料とした焼酎造りやサトウキビの搾り汁を使う「留汁焼酎」が作られたと記載がありますが、「黒糖」は、薩摩藩の管理により庶民が勝手に扱うことができないものであったため、黒糖焼酎は造られていませんでした。その後、明治新政府による酒造の免許制度が始まった頃から戦後に入るまでは、自家用焼酎が造られていたようです。戦後、奄美群島がアメリカ軍制下におかれ、本土と切り離されたことにより、売りたくても売り先が無くなった黒糖が焼酎造りに使用され、現在の奄美黒糖焼酎に繋がりました。元々の黒糖焼酎は「スピリッツ」と呼ばれる蒸留酒に区分されるものでしたが、奄美群島が日本に復帰する際に米こうじを使用することを条件に、黒糖を使用した黒糖焼酎の製造が認められ、現在に至ります。令和になった現在も奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島において製造され、単式蒸留機から蒸留仕立ての風味豊かな黒糖焼酎が溢れ出て、愛飲されています。大島税務署知名駐在の万膳重雄税務属(23歳)と大島警察署沖永良部分署の佐多義種巡査(25歳)は、知名町の海岸に停泊中の密売船(沖縄で密造された泡盛の密売)に乗り込み、犯人の検挙と密造酒の押収を行おうとしましたが、犯人グループの激しい抵抗により、両氏は危害を加えられ、滅多打ちにされたところで力尽き、手足を縛られ、海中に沈められるという、壮絶な死に至りました(犯人は逃走したものの、その後逮捕され、死刑あるいは無期懲役となったと伝えられています)。時を経て、沖永良部島(知名町白浜)と奄美市名瀬(らんかん山)の2か所に慰霊碑が建立され、職員が沖永良部島を訪れた際には慰霊碑に手を合わせ、らんかん山では警察署と合同で慰霊祭と周辺の清掃作業を行っており、殉職した両氏の勇敢な行動と遺徳を後世に伝えていくこととしています。おわりに焼酎の歴史に触れましたので、最後に1908年(明治41年)11月に管内(沖永良部島)で起きた事件についてご紹介します。

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