ファイナンス 2022年11月号 No.684
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52 ファイナンス 2022 Nov.(1941)、一県一行主義の流れで名古屋銀行、愛知銀行と合併し東海銀行になる。広小路から栄町へ大正15年(1926)に出版された大蔵省の土地賃貸価格調査事業報告書によれば、名古屋市西区で最も賃貸価格が高かったのは「玉屋町四丁目」である。札ノ辻から広小路まで4分割したうち広小路に接する区間である。ここが60円なのに対し、中区で最も高い「栄町五丁目、同六丁目」は65円だった。この時点で既に栄町が玉屋町を上回っていた。栄町は長者町筋から久屋町筋までの広小路の両側町で、大津通を挟んで東側が五丁目、西側が六丁目だった。現在地でいえばそれぞれメルサ栄本店、名古屋三越の前面道路である。栄町の発展のきっかけは路面電車の開通とそれに伴う道路拡幅である。中心街から熱田に至る南北幹線の検討にあたって、当初は本町通に沿って軌道を敷設する予定だった。しかし沿線住民の賛意を得られず、代わりに500m西の大津通を拡幅して線路を敷設することになった。明治41年(1908)に開通し、大津通りは広小路に次ぐ13間(23.6m)となった。前後して日銀が明治39年(1906)に栄町に移転。東京駅を手掛けた辰野金吾が設計する赤レンガの銀行建築だった。栄町には集客を見込んで百貨店が集まってきた。明明治30年(1897)、日本銀行が名古屋支店の開設地に選んだのが広小路だった。三井銀行は大正4年(1915)に広小路に移転した。今に残る重厚な銀行建築は昭和10年(1935)の竣工である。イオニア式の円柱が特徴で、こちらも現存する横浜支店と同様だ。界隈には住友銀行が大正4年(1915)、三菱銀行は大正7年(1918)、三和銀行の前身の山口銀行が大正9年(1920)に支店を出した。昭和2年(1927)に第一銀行が今のみずほ銀行名古屋支店の場所に移転した。同じ年には名古屋銀行も広小路に移転している。建物は名古屋を拠点に活躍した建築家、鈴木禎てい次じの設計で、東海銀行の本部や中央信託銀行だった時代を経て、平成30年(2018)にレストラン・結婚式場のTザHE CコンダーONDER HハウスOUSEとなった。昭和3年(1928)には愛知銀行が今の錦通に面する場所に店舗を新築のうえ移転した。ここは後に東海銀行の初代本店となった。治43年(1910)、いとう呉服店が栄五丁目に移転し百貨店を開店。ルネサンス風の3階建洋館が耳目を集めた。繁盛し手狭になったので大正14年(1925)に南大津町の現在地に6階建2万m2の大型店を建て本店を移した。このとき屋号を「松坂屋」に統一する。十一屋が栄町に移転したのは大正4年(1915)だ。大正8年(1919)には4階建の洋風建築に改築し百貨店を開業した。大正10年(1921)、鉄筋コンクリート造り5階建に改築。昭和11年(1936)には7階建に増築し売場面積は9,900m2となった。昭和14年(1939)、十一屋の広小路通を挟んだ向かいに3階建11,345m2の三みつ星ぼしが開店した。京都に本店を構える百貨店「丸まる物ぶつ」を経営する中林仁一郎が地元と合弁で立ち上げた。戦時中の昭和18年(1943)に十一屋と合併し「丸栄」になった。その後、丸栄は丸物の系列百貨店に位置づけられるようになる。丸物は池袋に東京丸物を開業するなど全国展開を図ったが後に経営が悪化。近鉄グループの傘下に入り京都近鉄百貨店となった。東京丸物はパルコに引き継がれる。昭和35年(1960)の最高路線価地点は「中区栄町五丁目松阪屋栄町店前広小路通」だった。後に名古屋の大手百貨店は4Mと称される。栄の松坂屋、丸栄、三越と駅前の名鉄百貨店のイニシャルだが、栄3店のうち最後に栄に移転したのが三越だ。当時はオリエンタル中村といった。母体の中村呉服店は明治2年(1869)の創業で、広小路と本町通の交差点北西角に店を構えていた。角地は本店用地として東海銀行が買収。中村呉服店は昭和29年(1954)、栄町のオリエンタルビルに入居し、オリエンタル中村百貨店となった。昭和31年(1956)には店舗を3階建から7階建に増築した。その後、昭和52年(1977)に三越の傘下に入り、昭和55年(1980)に名古屋三越百貨店に改称するに至る。平成5年(1993)には名古屋三越の前面に最高路線価地点が移った。駅前の発展と栄の再生栄地区は長らく商業中心地としての地位を維持していたが、しだいに勢いが駅前に移ってきた。名古屋駅前の開発が進み、平成12年(2000)には名古屋駅にジェイアール名古屋高島屋が開店。平成17年(2005)には最高路線価地点が「名駅1丁目名駅通り」に転じた。高

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