ファイナンス 2022年11月号 No.684
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四間道堀川本町久屋大通公園大津通十一屋跡②旧三井横浜正金跡大阪商船跡玉屋町住友跡興銀跡②県庁跡②市役所跡県庁跡①旧久屋町筋旧鍛冶屋町筋松阪屋跡旧伊勢町筋三星跡旧七間町筋明治跡②鉄砲町旧長者町筋三菱跡旧長島町筋三和跡旧桑名町筋不動跡勧銀跡旧伏見町筋(出所)筆者作成旧御園町筋旧第一旧加藤商会日本郵船跡旧呉服町筋興銀跡①本町通中橋線路跡街道筋美濃路旧京町筋五條橋旧魚の棚筋旧杉ノ町筋伝馬橋旧袋町筋本重町筋納屋橋納屋橋ゆめ広場瀬戸電跡いとう呉服店跡第一跡名古屋跡明治跡①伝馬町三井跡御園座伊藤跡下街道桜通下むら跡札ノ辻飯田街道十一屋跡①桔梗屋跡愛知跡②錦通旧名古屋三菱UFJ中村呉服店跡丸栄名古屋城外堀愛知跡①広小路テレビ塔オアシス21コンラッド予定地上昇率の最高日銀跡栄町5三越旧オリエンタル中村新中日ビル予定地松阪屋ファイナンス 2022 Nov. 51図2 市街図 が、当時は名古屋銀行、後述の愛知銀行と並び3大銀行と呼ばれるほどの勢いがあった。時代が下るにつれ重心は南に動いていく。玉屋町の南端に接する広小路は元々城下町の外縁で、排水路があったことから堀切筋と呼ばれていた。万治3年(1660)の大火事で城下町の半分が焼失。延焼防止策として堀切筋が15間(約27.3m)に拡幅され、その後、広小路と呼ばれるようになった。ただし拡幅されたのは本町通の1筋西の長者町筋まででそのから先は細道のままだった。西は久屋大通の公園部分を挟んで西側の旧久屋町筋が終点である。つきあたりには明治10年(1877)に愛知県庁ができた。発展の契機が明治19年(1886)の名古屋駅の開業だ。線路は知多半島の付け根、衣きぬ浦うら湾の武たけ豊とよ港から岐阜を目指して北上し、清州駅(現在の枇び杷わ島じま駅)に到達したところで名古屋駅ができた。当時、わが国の東西幹線は中山道ルートで整備が進められていた。岐阜-武豊間の路線は幹線整備のための資材搬入ルートを兼ねた東西幹線の枝線だった。ところが名古屋駅が開通した年に東西幹線計画は中山道ルートから東海道ルートに切り替わり、枝線として計画された路線の大部分が本線になった。工事は急ピッチで進められ、東海道本線は明治22広小路と玉屋町愛知県統計書に掲載されている最高地価のうち最も古いのは明治16年(1883)で場所は「玉屋町」だった。本町通のうち札ノ辻から広小路までの区間の両側町である。街の重心は札の辻の南側にあった。年(1889)に全通する。名古屋駅は広小路の軸線を東に伸ばした地点に計画された。桜通りのつきあたりにある現在の名古屋駅より200m程南である。駅の開業にあわせて広小路が延び、長者町筋から東の部分の道幅が拡がった。こうして広小路は駅から直進し県庁につきあたる駅前通りになった。明治31年(1898)には京都に次いで全国2番目の路面電車が広小路に通された。名古屋駅最寄りの笹島から県庁前まで5つの停留所ができた。この頃から銀行街が広小路近辺に移ってくる。明治29年(1896)、玉屋町に愛知銀行(現在の第二地銀「愛知銀行」とは別)が開業した。東海銀行の前身3行の1つで、碁盤の目の北辺の京町筋に2つあった国立銀行が国立銀行制度の満了を機に統合してできた銀行である。国立銀行の1つが第十一国立銀行で明治10年(1877)の創業。いとう呉服店の14代伊藤次郎左衛門祐すけ昌まさが初代頭取を務めた。もう1つが第百三十四国立銀行で明治11年(1878)の設立である。なお伊藤祐昌は明治14年(1881)にも銀行を立ち上げている。いとう呉服店の隣で創業した伊藤銀行で、こちらも東海銀行の前身3行の1つである。昭和16年

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