ファイナンス 2022年11月号 No.684
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堀川松重閘門中川運河(昭和7~)第33回 「愛知県名古屋市」275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440Dトヨタ産業技術記念館ノリタケの森ささじまライブ至・桑名宿名古屋港大須美濃路熱田神宮宮宿東海道札ノ辻久屋町筋広小路図1 広域図(出所)地理院地図vectorに加筆して作成名古屋城公園とともに生まれ変わる栄地区 50 ファイナンス 2022 Nov.堀川舟運と街道が交わる伝馬町名古屋駅は東海道線だが東海道は名古屋を経由せず南方を通過する。最寄りの宿駅は7km南の宮宿で熱田にある。木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川がたいへんな難所で、次の宿駅の三重の桑名まで海路でショートカットするルートだ。熱田から名古屋までのアクセス道は美濃路と重なる。美濃路は宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ脇街道だ。名古屋城下の街割りは碁盤の目が基本で、江戸初期の絵図を見ると、熱田からのアクセス道が碁盤の目に直進する様が「甲」の字のようだ。「甲」の字の上辺が名古屋城外堀、左辺が堀川に接する。そして右辺が現在の久屋大通で下辺が広小路にあたる。名古屋の風景といえば広小路から久屋大通の名古屋テレビ塔を臨む構図が定番だが、城下町としては端に位置した。そして「甲」の字の中心にあるのが「札の辻」だ。札の辻を中心に城下町を南北に貫く大通りを本町通といい大店が軒を連ねていた。中でも十じゅう一いち屋や、下むら、桔梗屋そしていとう呉服店は4大呉服店と呼ばれていた。十一屋は丸栄、下むら呉服店は大丸、いとう呉服店は松坂屋の祖である。美濃路は札の辻でクランクし、伝馬町を辿って碁盤の目から出る。伝馬橋を渡ったところで右折し、堀川に沿って北上する。堀川は開府の頃に開削された運河で、名古屋城下と熱田の港を結んでいた。熱田とのアクセスに関して美濃路は陸路、堀川は水路という分担だった。堀川沿いには米穀、味噌、塩などを扱う商家が集まった。明治に入っても堀川河岸から本町通にかけての一帯が賑わった。特に銀行は本町通と堀川河岸の間の馬町で創業したケースが多かった。最も早い銀行は三井銀行で明治5年(1872)に伝馬町で開業。後に名古屋銀行(現在の第二地銀「名古屋銀行」とは別)、第一銀行、明治銀行が町内に店を開いた。名古屋銀行の開業は明治15年(1882)。戦後の地域一番行かつ大手行の一角を占めた東海銀行の前身3行の1つである。東海銀行は再編を経て三菱UFJ銀行となった。第一銀行の進出は明治21年(1888)だが当初は四日市支店の名古屋出張所だった。渋沢栄一が創業した銀行でみずほ銀行の源流の1つである。明治銀行は明治29年(1896)の設立で、昭和13年(1938)に破たんする路線価でひもとく街の歴史

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