3瀬戸内海を渡る(1)大三島鞆の浦のシンボル、高さ11mの常夜灯と全長約150m、最大24段の円形劇場のような雁木。出典:鞆の浦(とものうら) - 福山市ホームページ(city.fukuyama.hiroshima.jp)年仮名手本忠臣蔵) 26 ファイナンス 2022 Nov.集にも「我妹子が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき」(四四六 大伴旅人)など鞆の浦を詠んだ和歌が八首。徳川家康の時代、1607年に始まった朝鮮通信使もここで汐待ち。万葉の時代から既に港としての役割。江戸時代の港湾施設に必要な「常夜燈」(船の出入りを誘導する灯台)「雁木」(潮の干満に関係なく船を着けられ、荷揚げができる石階段)「波止」(高波被害から港湾を守るために造られた石積みの防波堤。)「焚場」(ドックのようなもの)「船番所」(港に出入りする船を見張ると同時に、安全も管理・監督)という5つの設備のほぼ完全な形で残っているのは全国でも鞆の浦だけという。鞆の浦の沖にある仙酔島は「仙人も酔うほど美しい」といわれる景勝地。福禅寺対潮楼の座敷からは,穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ鞆の浦の素晴らしい眺めを一望。1711年には,朝鮮通信使が対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地)と称賛。現在、広島県福山市にある鞆の浦。対潮楼からの景色は,アニメ「サザエさん」のオープニングや,谷村新司の「いい日旅立ち」のCDジャケットにも使われ、また興行収入155億円、2008年に最も売れた映画、宮崎駿の「崖の上のポニョ」の町のモデルだとも言う。元禄14年(1701年)3月、江戸城本丸松之廊下で播磨国赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかる殿中刃傷事件、浅野内匠頭は即日切腹の処分。元禄15年12月14日、四十七士による吉良邸討ち入り。一連の事件が「忠臣蔵」として知られるのは、討入りから47年目の寛延元年(1748年)に最初は大阪で浄瑠璃として上演され人気を博した「歌舞伎演目の金字塔」と言われる「仮名手本忠臣蔵」の影響だという。当時、当代に起きた政治的事件をそのまま劇化することは禁じられていたため、「太平記」の世界に仮託して脚色。役名は、吉良上野介が高師直、浅野内匠頭が塩冶判官、大石内蔵助が大星由良助。浅野を塩冶判官に擬しているのは、浅野の領地の赤穂が塩田経営で知られる土地ゆえ。万葉集、古今和歌集、新古今和歌集でも瀬戸内海での塩焼きに関する歌は多く、瀬戸内海では古来、海水から塩づくり。忠臣蔵の時代には海水を天日干して塩田で塩を生産したようだが、環境省のWebsiteによると、「1762年 このころから瀬戸内の塩田で石炭の使用が始まる」とあり、脱炭素の考えもない「1886年 このころ、石炭使用量の51%を塩田で占める」という。専売公社時代の1970年、電気を帯びた百万分の1mmくらいの塩分だけ通る孔が開いた膜を使い海水を一気に濃縮する、従来の1万分の1のスペースで足りるイオン交換樹脂膜法での製造に切り替わり、塩田はなくなったという。村上水軍の氏神、大山祇神社で知られる大三島。愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶしまなみ海道の中心、芸予諸島最大の島。樹齢2,600年、神話の時代から続く楠をご神木とする大山祇神社。甲冑、刀剣の国宝の八割が宝物館に納められているという。ここにはいずれも国宝の、白村江の戦いに際し、斎明天皇が勅願奉納された唐鏡、平家を京都から追い落とした木曽義仲奉納の鎧、三島水軍百五十艘の兵船を引連れて讃岐屋島の義経の麾下に参じ、壇ノ浦合戦に活躍した武将、河野通信が戦勝の御礼に奉納した鎧、源義経が源平合戦に大勝を収めた後、武将佐藤忠信をして代参奉納せしめた「八艘飛びの鎧」と呼ばれる鎧など素人が聞いてもタダ者ではないお宝がずらりと並ぶのは壮観。しまなみ海道開通前に大三島に行ったら、島に3台しかないというタクシーの運転手はとても親切で、前を見て運転をしなさいと習った身としては、安全運転(9) 赤穂(1701年 殿中刃傷事件、1748
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