ファイナンス 2022年11月号 No.684
29/92

ファイナンス 2022 Nov. 25村上水軍の分布図。安芸国から伊予国の間を通る船は村上水軍の支配水域を通る。環境省「せとうちネット」<3.瀬戸内海の歴史と文化[せとうちネット] (env.go.jp)>瀬戸内海今昔 (7) 村上水軍(1581年 ルイス・フロイスが瀬戸内海を航行)(8) 鞆の浦(1607年 朝鮮通信使が初めて来日)たという趣ある古民家のお店はいつも長蛇の列。厳島の戦いで、毛利についた村上水軍。環境省のサイトでは1434年に初めて「室町幕府、大島村上氏に遣明船の海上警固を命じる」と登場。幕府公認の存在。村上海賊(村上水軍)は、14世紀中頃から瀬戸内海で活躍した一族。能島・来島・因島に本拠をおいた三家は「それぞれに海城を築き、因島村上氏は本州側の航路、能島村上氏は中央の最短航路、来島村上氏は四国側の航路を押さえていた。海城を要衝に置くことで、海の戦いに備えるだけでなく、海の関所として瀬戸内海の東西交通を支配」したという。その財力。村上水軍に関する文献は多いが、事業再生分野の権威として著名な園尾隆司元裁判官の担当の国際海運会社の民事再生案件でスポンサーに村上水軍の末裔が登場。それをきっかけに書かれたという「村上水軍 その真実の歴史との経営哲学」によると、平安時代の年貢の運賃は積荷の4割5分と高額。それでも、時期は異なるが陸路だと海路の4倍、10日も余計にかかったというから海路が合理的。「このように収益の大きい海運事業に携わる水軍は、その財力を持って組織と武力を整備し、武装した海運事業者として、各海域において独立した地位を占めることと」なり、源平の屋島・壇ノ浦の戦いでは源平の双方で水軍が活躍。源氏方についた水軍は中世に入って、大きく勢力を拡大したという。その武力。海賊というと一攫千金を夢見て宝探しかと思いきや、ここではフック船長やジョニー・デップもデイヴィ・ジョーンズも出てこない。平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担い、戦時には「強大な母船安宅船、快速の関船、俊敏な小早船を駆使し、弓矢のほか『焙烙火矢』といわれる重火器を自在に使用して、抜きんでた攻撃力を有していた」という。1581年、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが瀬戸内海を航行した際、能島殿という日本最大の海賊と交渉し、自由に通航できるよう、好意ある寛大な処遇を求め、能島殿は「怪しい敵に出会ったときに見せるがよいとて、自分の紋章が入った絹の旗と署名を渡した。」という。当時、「日本中で最高の海賊としてその座を競い合ってきたのはただ二人だけ」で、その一人は能島殿であり、他の一人は来島殿というから、いずれも村上水軍。村上水軍は、厳島の戦いの後、毛利家と親しく、敵対する信長の本願寺攻めに対して本願寺に兵糧を搬入。「信長公記」によると、木津川の戦いで、織田方300余艘に対する村上水軍800艘ほどは「焙烙火矢というものを作り、味方の船を包囲して、これを次々に投げ込んで焼き崩し」、織田方の「歴々多数が討ち死に」。村上水軍は兵糧を補給して、西国に引き揚げて行ったという。その後、「1588年 豊臣秀吉、海賊禁止令を出す」。現在。村上水軍の末裔について、園尾元裁判官は、「村上水軍各家には、卓抜した経営の技量を持つ方が多く、各家とも、多数の企業経営者を輩出」しており、そこには「1000年を超える歴史の中で鍛造された」経営哲学、「試練を乗り越える哲学」があるという。来島村上氏の本拠地、来島海峡は今も水先人の乗船が義務づけられている11の強制水先区の一つ。古来、国内外を結ぶ海上交通の大動脈、瀬戸内海。東西を結ぶ船の行き交う瀬戸内海。潮待ち、風待ちの港町が繁栄。今も、鞆の浦、尾道など歴史情緒ある街並みが残る。中でも瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦、万葉

元のページ  ../index.html#29

このブックを見る