ファイナンス 2022年11月号 No.684
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標高530mとひときわ高い瀰山を擁し、古来より信仰の対象として周辺の人々が崇めてきた神の島、嚴島。古くは瀰山を中心とする島全体をご神体とし、創建は593年(推古元)と伝えられる世界遺産、嚴島神社。 嚴島神社蔵 写真提供:広島県(6) 嚴島(1555年 毛利元就、村上水軍の来援を得て、陶晴賢を嚴島で討つ) 24 ファイナンス 2022 Nov.人の乗船が義務づけられている11の強制水先区があり、関門もその一つ。壇ノ浦で滅んだ平家が崇拝したのが世界遺産、嚴島神社。安芸守となった平清盛が嚴島神社の社殿を修復し、崇拝したことで知られるが、源平の戦いには出てこない。この神聖な島が戦場となったのは、大内義隆に仕えていた毛利元就が、同じく大内配下で主君義隆を討った陶晴賢を破った「嚴島の戦い」。この「嚴島合戦を前にして、元就の謀略は最高度の威力を発揮」。北の脅威、尼子の「後門の狼の牙を抜」くため尼子軍団の最強兵力を尼子晴久への謀反の企てとの偽情報で誅殺させる。次いで、元就は晴賢の重臣を自己の陣営に入れようとしたが、「その態度が曖昧であったため、不安を感じ、…陶方の間者を逆用して…晴賢に密告させ」殺害させる。元就は、嚴島に囮城を築き、陶軍をおびき寄せ、渡海して陶軍に奇襲攻撃をかける戦略。ゆえに「毛利軍にとって最も必要としたのは水軍力の充実」。そこで、村上海賊集の来援を要請。晴賢も来援を要請していたが、「陶は何となく借りたり、元就はただ一日貸したまはれ、宮島に渡りて即ち戻すべしと言ひ送られければ、久留島(来島)道康聞きて、一言なれど思い入りたる所あり。毛利必ず勝つべき事疑うべからずとて、三百艘貸したりける」。決戦前夜、暴風雨の中、村上水軍の船も借りて渡海した毛利軍は夜のうちに山に登り、夜明けとともに鬨の声を上げ、晴賢の本陣めがけて一気に駆け降りる。狭い嚴島に布陣した2万の陶に対して、4,000人の毛利の奇襲攻撃で陶は大混乱。晴賢は脱出を図るが船がなく自害。標高529メートルの宮島の瀰山、原生林が平成8年に厳島神社と共に世界遺産に登録。ロープウェーで険しい岩山を15分で一気に登り、そこから瀬戸内海を一望できる山頂まで40分、360度の絶景が広がる山頂の展望台は日経新聞NIKKEIプラス1の「『多島美』めでる展望台』10の3位。2014年に古い展望台を建て直した木造2階建ての宮島弥山展望休憩所は、広島原爆ドーム近くの「おりづるタワー」や前回ご紹介した「犬島精練所美術館」の設計者、三分一博志設計。その瀰山からは、海軍兵学校で知られる江田島や戦艦大和を建造した呉も一望。江田島の海軍兵学校は今は海上自衛隊の第一術科学校(射撃、水雷、船務、航海、気象、通信、電子、掃海機雷、運用、応急、潜水、警備、体育等、多岐にわたる術科教育)で見学可能。その桟橋で「チヌ(黒鯛)がよく釣れるんですわ。」と昔、広島の人から聞いた。海軍以来、乗組員に曜日感覚を保たせるため艦上では金曜日のメニューはカレーだというが、ここのお土産売店売れ筋商品No1はカレーだという。農水省のWebsiteによる海軍カレーの由来。明治3年以降、脚気が大流行、結核と並ぶ2大国民病と言われ、特に白米を食べられる軍隊で拡大。食事のメニューのせいではと考えた海軍軍医 高木兼寛が対照実験。9か月の航海で白米中心の食事を提供した艦では380人中約170人が脚気に罹り25人が亡くなったが、洋食を提供した艦では330人中、脚気患者は20人以下で死者0という劇的な効果。栄養バランスが良く、調理が簡単で大量に作れ、おいしいため、英国海軍で提供されていたカレーを導入。海軍内にカレーが普及し、海軍で脚気が克服されたという。なお、農林水産省のWebsite「日本各地の郷土料理」で海軍カレーは江田島や呉のある広島県ではなく、横須賀のある神奈川県の郷土料理(海軍カレー…神奈川県:農林水産省(maff.go.jp))。農林水産省のWebsiteだと広島県の郷土料理はかき飯だが、宮島といえば、あなご飯も名物。宮島の対岸、宮島口のフェリー乗り場前にある日経新聞のNIKKEプラス1でも紹介された老舗、上野屋。創業明治34年、どのガイドブックにも載っている人気店、社長の生家を改装し

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