ファイナンス 2022年11月号 No.684
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ファイナンス 2022 Nov. 23吾妻鑑での壇ノ浦の報告の場面。「一 先帝没海底御 入海人々 二位尼上…」とあり、次頁に報告を受けたときの頼朝の様子。出典:新刊吾妻鏡.巻4-5 - 国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)瀬戸内海今昔 奇襲攻撃、内裏に火を放つと平家方はまたも海に逃げる。源氏方が少人数と分かると平家方随一の強弓、能登守教経が逆襲。義経を射殺そうとさんざんに射掛ける。武蔵坊弁慶らがガードし義経は無事だが、奥州以来の家臣を失う。義経は鵯越で乗った名馬を僧に贈り、弔うよう頼むと源氏の兵士、「この御大将のためなら命も惜しくない」と感動。那須与一が平家方の船上の扇を射たのもここが舞台。平家物語によると、屋島の戦いの後、義経は部下を派遣。源氏方についた河野通信を討つために3千人を率いて伊予に遠征していた平家方の田内左衛門教能に、屋島の戦いで平家方は全滅し、父も生け捕りにし、息子の身を案じていると騙して降伏させ、味方につける。これが壇ノ浦の勝利を決定づける。梶原景時が着いた時には戦は終わっていて、「今頃来ても用はない」と人々は嘲笑ったという。平家物語ではいつも義経はヒーローで、梶原景時はヒールである。現在、屋島は瀬戸内国際芸術祭の舞台、高松。新作として8月に山上に展望施設「やしまーる」が開業。設計者の1社SUOの主宰者周防貴之は、金沢21世紀美術館の設計者、SANAA(Sejima and Nishizawa and Associates妹島和世・西沢立衛)出身。曲がりくねったガラス張りの全長220m「高低差がある計画地の地形を生かし」、「蛇行する川の流れをイメージしたような平面形状」の回廊から瀬戸内海を一望。壇之浦の戦い。屋島で敗れた平家は壇ノ浦、今の下関に。平家物語によると、源氏の船は三千余隻、平家の船は千余隻での海上での戦い。戦に先立ち、源氏方では義経が梶原景時と先陣争い。大将軍が部下と先陣争いをするなど「この殿は、生まれつき人の主にはなれぬものとみえるな」という景時と自ら「大将軍は鎌倉殿、わしは戦奉行を承ったまでのこと故、そなたたちと同じ」という義経、またも同士討ちの危機。決戦の朝、平家方では、戦いの朝、息子が源氏方に降伏した父阿波民部重能が裏切るのではと怪しみ斬ろうとする平知盛を総大将平宗盛がまさか裏切るまいと抑える。義経は、当時、非戦闘員とされ、攻撃されなかった船乗りを遠慮なく射殺し、平家方の船の自由を奪い、やがて、知盛の懸念とおり重能が裏切ると寝返りが続出。大勢は決し、もはやこれまでと平家方は次々と入水。平教経は、船から船へと乗り移り義経を探し回るが、義経、「八艘飛び」で逃げ、教経は源氏方二人の力自慢を道連れに海へ。鎌倉幕府の公式文書、「吾妻鑑」によると、安徳天皇の入水、亡くなった人、生け捕られた人、三種の神器のうち草薙剣が失われたことなど壇ノ浦の合戦の結果の報告を受けた頼朝は、直ぐにその文書を取上げ、自分で巻いて持ち、鶴岡八幡宮の方に向かって座り、言葉を発することもなかったという。下関は19世紀にも歴史に登場。1895年、日清戦争の講和条約は下関で締結。講和条約の舞台、春帆楼は河豚料理店、日本側全権の伊藤博文が河豚を解禁した店だという。秀吉の時代、河豚中毒死が続出したため禁止され、長州藩では禁を破ると家禄没収の厳罰。もっとも、禁令は表向きで、庶民は昔からふぐを食していたという。1887年、初代内閣総理大臣の伊藤博文が宿泊した折、「魚を食したい」という伊藤公に海は大時化でまったく漁がなく、困り果てた女将が打ち首覚悟でふぐを出したところ、「若き日、高杉晋作らと食べてその味を知っていた伊藤公は、初めてのような顔をして『こりゃあ美味い』と賞賛」。知事に働きかけて山口県内ではフグが解禁。春帆楼の隣の「日清講和記念館」(日清講和記念館 SHIMOHAKU Web Site)には伊藤博文や李鴻章の座った椅子など講和会議場を再現。現在の関門海峡。特に船舶が混雑し、地形や水路が複雑で、気象や潮流の状況が厳しい港や水域では海難事故の発生するおそれが高く、一定の船に対して水先

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