ファイナンス 2022年10月号 No.683
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図2 広域図四日市IC国道477号(現イオン日永/日永カヨーSC)'98-ジャスコ四日市尾平店'76-ジャスコ日永店(現イオンSC)(現イオンタウン四日市泊)’01-ジャスコ四日市北店(現イオンモール)'95-パワーシティ四日市(出所)地理院地図vectorを下図に国道、解説等を加筆して作成 58 ファイナンス 2022 Oct.が進出。東海銀行が蔵町から移転してきた。沖ノ島町には百五銀行が昭和26年(1951)に移転。昭和27年(1952)、その並びに三重銀行が本店を構えた。蔵町の旧本店は空襲で焼失していた。現在の三十三銀行新道支店である。本町には第一銀行が昭和21年(1946)に移転。交差点のはす向かいに三重県農工銀行を前身とする日本勧業銀行があった。昭和35年(1960)の最高路線価地点は、「四日市市新田町三重交通案内所北側通」だった。三重交通案内所は国道1号と交差する側の諏訪新道にあった。ただし諏訪新道が最高路線価地点だった時代は長くない。昭和40年前後には近鉄四日市駅前にその座を譲ることになる。その要因が近鉄四日市駅の登場と、近鉄四日市駅前から国鉄四日市駅まで東西1.9kmを結ぶ中央通りの開通である。道路の軸線と重ねて両駅をシンボリックに配置したシンボル中央通りはその幅員から70m道路とも呼ばれた。その広大さから、供用前の昭和27年(1952)には「講和記念全日本農機具・新日本産業大博覧会」の会場になった。今もうっそうとしたクスノキ並木が印象的な公園道路だ。道路整備とあわせて旧諏訪駅と旧四日市駅の間の線路を撤去。旧四日市駅から西にクランクしていた線形を直線化し、旧諏訪駅の背後に近鉄四日市駅を新設した。開業は昭和31年(1956)である。当時の中央通りは近鉄四日市駅で行き止まりで、駅前広場にUターン用のロータリーが設けられていた。昭和35年(1960)には駅ビルに近鉄百貨店が開業した。創業地は西町に直交する「久六町」だった。宝暦8年(1758)に初代岡田惣左衛門が「篠原屋」を旗揚げした。当時は行商、今風にいえば無店舗販売が主で大黒柱に車をつけよ四日市は全国でショッピングモール等を展開するイオングループの発祥地である。改称前の“ジャスコ”の前身3社の1つが四日市で創業した岡田屋呉服店である。岡田屋は「大黒柱に車をつけよ」という家訓で知られる。実際、店の大黒柱がどのように動いてきたか「ジャスコ三十年史」(2000、ジャスコ株式会社)をひもといてみよう。四日市の街の中心の歴史と重なるはずだ。図1に、岡田屋~ジャスコの本店の場所の変遷を丸数字で示した。太物(綿・麻生地)、小間物(和雑貨)を扱っていた。明治20年(1887)、5代惣右衛門の代に「辻」へ移転。ここに店の大黒柱が立ち岡田屋の店名が登場する。住所は南町一番屋敷で堅町通に面していた。手狭になったため明治30年(1897)に同じ辻界隈で移転。住所は北町一番屋敷で辻から西町通に入った場所だった。7代目当主、イオングループ名誉会長の岡田卓也氏が昭和21年(1946)に社長に就任。辻の店と地所を諏訪新道の地上権と交換し、昭和24年(1949)に新店を開いた。予想を上回る盛況で10年足らずで売場面積5倍、売上10倍になった。一方、近鉄四日市駅周辺の変貌から将来の発展を見越し旗艦店の出店を決断。昭和33年(1958)に駅前オカダヤが開店した。このとき岡田屋からカタカナ表記に変えている。昭和34年(1959)、駅前オカダヤは百貨店法の営業認可を受け百貨店となり、あわせて本店を移した。その後岡田屋、兵庫県姫路市のフタギ、大阪府吹田市のシロの3社が提携。昭和44年(1969)にジャスコ株式会社を設立した。ジャスコはJapan United Stores Companyの頭文字で社内公募を通じて選ばれた。まずは3社共同出資の本社機構を設立し、後に集約統合する経緯を辿った。当時の最高路線価地点は「諏訪栄町堀木屋菓子店前

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