ファイナンス 2022年10月号 No.683
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関西本線辻②東海道岡田屋跡①国道1号近鉄名古屋線四日市跡愛知跡第一跡北町南町三瀧通り岡田屋跡③④4 四日市港左右田跡思案橋跡農工跡百五跡勧銀跡善光寺第一跡協和跡天理教四日市駅跡近鉄百貨店ファイナンス 2022 Oct. 57三十三本店スターアイランド跡諏訪駅跡トナリエ旧アムスクエア(旧松坂屋)'11-最高路線価市民公園ジャスコ跡⑤諏訪神社中央通り(70m道路)笹井屋西町諏訪町三井跡三菱跡諏訪前駅跡大和跡中部小学校(陣屋跡)浜往還堅町(四日市往還・菰野道)不動跡(50m道路)沖ノ島町三菱UFJ(旧東海)百五三十三(旧三重)三重/四日市鉄道跡市役所諏訪新道中町浜町中納屋町本町南納屋町関西堀跡東洋紡績跡かつての水路蔵町開栄橋納屋運河相生橋かつての水路図1 市街図(出所)筆者作成から分岐して伊勢方面に向かう現在の紀勢本線のうち、津までは関西鉄道の支線として敷設されている。街の中心は諏訪新道へ明治40年(1907)、諏訪神社の門前に諏訪新道が整備される。50余年後には四日市のメインストリートになるが、開通当初は市街地の外側にあった。大正に入ると諏訪新道のさらに外側に郊外鉄道が敷設された。まずは三重鉄道線である。大正2年(1913)時点で西郊の八王子村から諏訪神社の裏手の諏訪前駅まで開通していたが、大正4年(1915)に市街の南側を迂回するルートで四日市駅まで延びた。後の近鉄八王子線、現在の四日市あすなろう鉄道である。一般的な電車に比べ車幅が狭い「ナローゲージ」で知られてい4」の由来でもある。次は四日市る。社名「あすなろう4鉄道である。大正2年に湯ノ山駅から諏訪町まで開通していたが、大正5年(1916)に三重鉄道と同じルートで四日市駅まで延びた。後の近鉄湯の山線である。最後は伊勢鉄道である。当時、津に行くには関西本線亀山駅で乗り換える“く”の字のルートを辿らざるをえなかった。これを短絡し四日市と津を結ぶ目的で大正4年に創業。路線は大正11年(1922)に完成した。大正14年(1925)に熊澤一衛が社長に就任。桑名から伊勢神宮まで縦断する拡大路線に転じ、翌年「伊勢電気鉄道」と改称した。とはいえ四日市駅から北に線路を延ばすには市街地を迂回する必要がある。そこで四日市駅から諏訪駅までの路線を、子会社化した三重鉄道から譲り受けることにした。昭和4年(1929)に四日市駅から桑名駅まで延伸を果たしたが、四日市駅と諏訪駅の近辺で大きくクランクする線形になった。市内2か所の急カーブは目印となった施設にちなみ善光寺カーブ、天理教カーブと呼ばれた。なお伊勢電気鉄道は昭和5年(1930)に大神宮前(伊勢神宮の外宮の前面)まで延伸し当初の目標を果たす。次の目標として名古屋延伸を目指したが設備投資が重荷となって経営難に陥り、昭和11年(1936)、伊勢神宮に向け志摩半島を並走していた競合の参宮急行電鉄に統合された。悲願だった名古屋延伸は、昭和13年(1938)に(現在の)近鉄系の関西急行電鉄によって果たされることとなる。戦後、江戸橋駅(津市北郊)以南の並走区間は廃止され、江戸橋駅以北が現在の近鉄名古屋線として残った。鉄道路線に引き寄せられるように四日市の中心街は徐々に南下。戦災そして復興事業を経て、街の中心は諏訪新道に移った。道沿いに銀行も集まってきた。諏訪新道は諏訪神社を上手に諏訪町、沖ノ島町、本町の3町に区分されるが、まずは諏訪町に三井、三菱銀行

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