ファイナンス 2022年10月号 No.683
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第32回 「三重県四日市市」大黒柱に車をつけた街の未来275D510C240E295E540C470D470D1,570C560C510C320D1,560C570C1,380C810C1,410C360D490D360D255E560C610C1,650C1,620C620C1,730C1,520C1,510C400D1,200C370D400D1,090C320D320D1,080C870C730C500D2,210C2,160C2,240C2,100C1,720C1,550C1,500C1,130C1,150C340D400D970C870C290D275D270D2,350C2,390C610C550C600C540C1,430C420D900C390D400D390D410D870C390D850C2,900C2,550C2,600C2,430C660C630C2,310C650C1,900C1,500C420D410D400D400D420D410D440D 56 ファイナンス 2022 Oct.東海道の■と浜町・蔵町ビジネス街四日市は東海道43番目の宿で桑名の次である。桑名の1つ前が宮宿(熱田)で宮と桑名の間は海路だった。木曽川、長良川、揖斐川のいわゆる木曽三川が陸路を阻んでいたからだ。海路は「七里の渡し」と称されるが、宮宿から四日市宿にバイパスする海路もありこちらは「十里の渡し」と呼ばれていた。要するに四日市は陸海両路の拠点だった。これを反映し、東海道沿いの宿場町、伊勢湾に面した港町、そして宿場町と港町をつなぐ浜往還沿いに市街地が発展した。東海道と浜往還の交差点を「辻」といった。ここが街の中心で、陣屋(幕府の代官所)も近くにあった。大正15年(1926)の土地賃貸価格調査事業報告書によれば四日市の最高地価地点は「北町・南町の辻」だった。大正末期に至って辻は街の中心であり続けた。四日市港は明治期を通じて伊勢湾最大の港で、名古屋港を上回る取扱量だった。明治17年(1884)に近代港が完成。横浜港の象の鼻防波堤と同じく、片方がJの字に湾曲している大小2本の波止場が特徴だ。築港に貢献した稲葉三右衛門を顕彰し地名は稲葉町となった。明治22年(1889)には特別輸出港に指定された。後背地の蔵町は文字通り倉庫が軒を連ねており、その先の浜町にわたって銀行も集積していた。名古屋の外港としての背景から荷為替需要が高かった四日市の銀行の歴史は古く、明治10年(1877)には三井銀行が出張店を置いている。明治25年(1892)、支店に昇格し明治38年(1905)まであった。第一国立銀行は名古屋より4年早い明治17年(1884)に出店。出店時に出張所だった名古屋に対し四日市ははじめから支店だった。明治34年(1901)に愛知銀行が出店。後の東海銀行、現在の三菱UFJ銀行である。横浜が本店の左右田銀行が明治37年(1904)、津市に本店を構える百五銀行は大正12年(1923)の進出だ。四日市に本店を構えた銀行が明治28年(1895)創業の四日市銀行である。明治43年(1910)に新たな本店を蔵町に構えた。昭和恐慌の余波で休業したが再建を果たし昭和14年(1939)に三重銀行に改称した。昨年の経営統合で三十三銀行となった波止場の遺構(「潮吹き防波堤」)から蔵町、浜町を歩いてみても今は閑散としており明治のビジネス街の面影はない。その先の、東海道と交わる「辻」に至る浜往還そして旧東海道は住宅地だ。明治時代、菰野道は「中町銀座」と称されるほど賑わっていた。もっとも、通りに沿って和菓子の老舗が点在するところに名残を感じる。旧東海道の北町の老舗、四日市みやげの定番「なが餅」の笹井屋は天文19年(1550)創業だ。関西鉄道と四日市駅四日市は東海道の宿駅にもかかわらず官営鉄道の東西幹線から外れてしまった。鉄道の「東海道本線」が名古屋から岐阜に北上し中山道のルートを辿ることになったからである。旧東海道を辿る路線は四日市発祥の私鉄が整備した。社名を関西鉄道といい、明治21年(1888)に設立された。東海道本線に合流する滋賀県の草津から3度目の延伸で四日市に到達。明治23年(1890)の開業だった。名古屋までの全線開通は5年後の明治28年(1895)まで待たねばならなかった。鉄道敷設においても木曽三川の架橋がボトルネックとなっており、創業年に着手した架橋工事が全線開通まで続いていた。明治40年(1907)に国有化され、その後名古屋駅から柘植駅までが関西本線、柘植駅から草津駅までが草津線となった。ちなみに亀山路線価でひもとく街の歴史

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