ファイナンス 2022年10月号 No.683
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2瀬戸内海の過去へ(1)古事記、日本書紀、万葉集、遣唐使 46 ファイナンス 2022 Oct.をつとめた福武から「第三回が終了したところで、…『自分は直島でやってきたけれど、瀬戸内の島は厳しいよ。これを大地の芸術祭のように、自治体と組んで広域で展開することができたらどんなにいいか。フラムさんがやってくれないか』と」頼まれたという。2006年から早速準備を始め、2008年には、2010年に第一回芸術祭の開催が正式決定。北川は、「そもそも海は、太古から多くの人たちが移動する自由な交通路であり、海に囲まれた日本は海を介してさまざまな地域、国々とつながってきました。…しかし、近代になってすべてが陸地において発展していくようになると、海と島の大切さが忘れられ、ないがしろにされるようになりました。…瀬戸内海で芸術祭を行うならば、第一に考えなければならないのが本来の海のあり方であり、…第一回瀬戸内国際芸術祭の開催に当たって、そのテーマを『海の復権』とすることにしました。…島のお年寄りに元気になってもらいたい、地域に誇りを持つことから島の展望を作りたいという目的。それと地球環境への意識を重ね合わせるものとして『海の復権』をテーマに掲げたのです。」と語る。第5回となる今回は、国内外から直島のThe Naoshima Plan「住」」、豊島の「かげたちのみる夢」等の新作74点を含む214作品、直島、犬島、豊島、小豆島など12の島と2つの港が舞台で4月から11月にかけて春、夏、秋に分けて開催。この芸術祭、恒久展示されている過去の作品も見られるので、回を重ねるごとに充実する仕組み。1988年5月、雨の中初めて直島を訪れた安藤忠雄は、「初めてこの直島を訪ねたときは、大変美しい環境に驚いたと同時に緊張もしました。ここにいかに緊張感のある建築を作れるか、また、ここに展示されるであろう美術作品と建築、そして自然が上手く対話できるような環境にいかにするか、ということを実現するのは大変難しいと思われたからです。…ここへ船でアプローチしたときにこの島全体が美術館になっていく、と感じたことを大切に、そしてあらゆるところに美術館と自然が対話できるような可能性を残しておくことが必要だと感じました。」と語る。長年、直島の建築にかかわってきた安藤は、2010年の最初の瀬戸内国際芸術祭につき「開催される前はうまくいくのか疑問だった。島から島への移動手段は船に限られるし、点在する島々が一体となって芸術祭を行う姿が想像できなかった」が「多くの人が集まったのには驚いた。」という。「人間が生きるために本当に必要な力を生み出すのは経済ではなく、芸術・文化なのだ。芸術こそが人生の道標となり、人々の心を豊かにする。」という福武の考えを最初は理解できなかったという安藤は「私は福武さんの気迫と精神力に賭けてみたいと思うに至った。荒廃した島を豊かにし、現代美術の場にするという勇気が人々を引き付ける原動力になると確信し」、福武はウォルター・デ・マリア、リチャード・ロング、草間彌生といった最先端の現代美術家たちに協力を呼び掛け。彼らも福武の情熱に押されて、参加。島民も島に人が訪れるようになるにつれて自発的に民宿や喫茶店、レストランを営むようになり、次第に自分の島に誇りを持つようになったという。また、「建設会社の努力も忘れてはならない。22年もの間直島での工事を担当した鹿島建設の現場監督が、プライドの高い職人をまとめあげ、緊張感のある建築が生まれた。」という安藤は「人の思いは、文字通り岩を穿ち、山をも動かす。」と語る。現在、自然とアートと建築が共生する瀬戸内海の島々。ここで、古来、美しい自然に恵まれていた瀬戸内海の過去に遡る。古事記や日本書紀ではイザナミとイザナギは最初に淡路、次に四国、次になぜか隠岐、九州、壱岐、対馬、本州…を生んだというから、淡路、四国、九州、本州の間は瀬戸内海。神武天皇も、高千穂を発ち瀬戸内海を東上し、大和に至り、即位。万葉集でも、斉明天皇が661年に新羅遠征のために西に向かい、熟田津(今の道後温泉あたり)でしばらくとどまり、出発するときに額田王が「塾田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」と詠むなど瀬戸内海の各地にちなんだ歌。遣隋使や、空海、最澄、日経新聞の朝刊小説「ふりさけみれば」の主人公、安倍仲麿ら遣唐使も瀬戸内海を通って、大陸に渡ったという。その安倍仲麿の時代、環境省のWebisteでも「867(2)土佐日記(935年)

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