ファイナンス 2022年9月号 No.682
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ポイントはたくさんのものが集まったときの集合体で、どれだけ不都合なことが生じるか、です。人間が関わるようなものでもいくつかの例を簡単に挙げることができます。車の渋滞とか、サッカー場での将棋倒し、等が容易に考えられます。経済とどのように関係しているのでしょうか。例として金融政策を取り上げてみます。金融政策はいわゆるゼロ金利状態に日本、それからアメリカ、ヨーロッパも陥ったわけですが、そこでどういう政策がありうるでしょうか。結論的に言えば、金融政策の有効性というのは、かなり限られてきたというのが我々の経験ではないでしょうか。しかしながらそうした状態でも、「『期待』に働きかける金融政策は有効だ」というモデルがいくつも作られました。しかし私は、そうしたモデルにはほとんどミクロ的な基礎付けはないと考えております。その理由は先ほどお話ししたとおりです。つまり「ミクロ的基礎付けは与えた」と主張するモデルは、わかりやすく言えば「消費者と日銀が向かい合っている、消費者は日銀の行動をすべて理解して見ている」と考えるのです。将来という概念があって、将来においては貨幣数量説が成り立っており、そのことを消費者は理解している、だから今貨幣をたくさん出すと、今の物価にはすぐには影響は与えられないけれど、そのことは将来の貨幣が増えるというメッセージになり、将来貨幣が増えれば、将来の価格が上がる、皆がそれを信じるから、今の価格が上がる、というのが最近経済学で言われているロジックですが、これが「期待」に働きかけるというものです。しかし、多くの物価、特に消費者物価はそういうようには決められていないと私は思います。むしろ昔から土臭く言われてきた「物価は川上から川下にだんだん流れていく」ものであり、そこでは資産価格と違い「期待」の役割はそんなにはない。私の考えでは、現在の経済学では「期待」、expectationがあまりにも言われ過ぎていると思うのです。誤解ないように申し上げておきますが、金融市11.金融政策の有効性これまで挙げてきたような経済学の理論は、現実の場では「期待」がすべてです。金融市場はその点で特殊であり、金融以外の実体経済で「期待」など、そもそも交渉材料になりえないのです。例えば野球の選手が今シーズン怪我をしたとします。来シーズンの年俸を球団と交渉する際、「今シーズンは怪我のため活躍できなかったが、来期は打率3割5分になるはずだ、という期待を自分は持っている」と言っても、これは交渉の材料にはなりません。およそ人間が交渉するときには、現在を含めた過去のファクトが確定していれば、ファクトは共有できる、あるいは共有されなければならない。しかし将来の期待についてはそれを同意、共有する根拠はないのです。今の経済学では実体的な経済の議論でも、金融市場と同じように「期待、期待」ということが、おそらくルーカスの「合理的期待」あたりから、非常に強まってきているわけですが、私はそれはおかしいと思っております。最近バーナンキ(B. Bernanke、元FRB〈米連邦準備制度理事会〉議長)が講演で、いろいろなunconventional monetary policy(非伝統的な金融政策)をやってきたけれど、これは非常に重要で、基本的にうまくいった、という趣旨の自画自賛の発言をしていましたが、私はどこがうまくいったのか、という感じがいたします。もともとFRBにはアメリカのマクロ経済学で重装備されたスタッフがたくさんいます。2%の物価上昇目標(これ自体問題だと私は思っておりますが)、これを一時期オーバーシュートしていくのが正しい、しかし最後は2%に上から漸近していくから大丈夫だ、昨年CPIが5%くらいに上昇した時でも、お任せあれ、という感じだったのですが、はっきり言って、FRBの金融政策は大失敗だったということではないでしょうか。2%の物価目標よりは、グリーンスパン(A. Greenspan、元FRB議長、バーナンキの前任者)、かつてはマエストロとまで言われ、マエストロではなかったことはその後残念ながら2008年(リーマンショック)に明らかになってしまったのですが、彼が1996年に「そこそこ物価が安定していて、みんながあまり意識しなくなったということが物価の安定ということであり、中央銀行はそういう状況をもたらせば合格ということだろう」と言っていました。2%とい 68 ファイナンス 2022 Sep.

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