ファイナンス 2022年9月号 No.682
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令和4年度職員トップセミナー ファイナンス 2022 Sep. 67統計物理学き上っているのですが、経済モデルの中で誰一人として日本経済全体を制約条件には入れていないのです。現実の経済では個人も企業もGDPを制約条件にして最適化しているところはないのです。日銀の当座預金については、金融市場の人たちはそれに注目するでしょうが、ほとんどの企業経営者は日銀の当座預金を正確に言える人はいないのです。まして家計では日銀当座預金なんて聞いたことがある人はほとんどいないと思います。ですから日銀当座預金をそのまま積み上げてマネタリーベースを増やせばインフレになるというのは、企業や家計がはじめから知らないことに関することなので、「期待」に影響するなどありえないのです。私はマクロの変数が一つも制約条件に入っていないとは言いません。消費税はほとんどすべての消費者の制約条件に入っていると考えられます。だから皆それに注目するし、いわゆる駆け込み需要はあるのです。別の言い方をするなら、今のほとんどの数学的な経済モデルというのは、日銀当座預金と消費税の間の区別はないのです。すべての合理的な消費者や企業がそうしたものを制約条件として見ている、と考えるのです。でも私はそれは全然違うと思いますし、そういうモデルはほとんど意味がない、と思っております。ヴォルテール(Voltaire、フランス人で18世紀の啓蒙思想を代表する人物)が書いた「カンディード」という小説があります。これは大したものだと思います。この世の中が現実にはどれだけ滅茶苦茶にできているかが描かれており、それでも「うまくいっている」と言い続けるのがドクターパングロスという人物です。彼は主人公と一緒にいろいろ旅をするのですが、例えばリスボンに行くと大地震に遭遇する。主人公が「こんなひどい目に遭っているじゃないか」と言うと、ドクターパングロスは、「いやいや、今はひど9.ミクロの論理ミクロの企業や家計が最適化、optimizeするというのは、定義によって「うまくいく」ということです。「うまくいく」という論理を積み上げて、それによってマクロの問題、「不都合な真実」、うまくいっていない問題を説明するというのは、はじめから無理筋なのです。いように見えるけど、これこれこういうことで、世の中をよくする最適化に向けての途上なのです。」と屁理屈を言うのです。そうした積み上げの笑える内容の本ですが、まさに新古典派の経済学は「カンディード」の中のドクターパングロスの経済学だということができると思います。マクロの事象をいろいろ説明するときに、ミクロの行動を詳しく追ってもダメなのです。以前、東大に大変有名な、統計力学を専門とする久保亮吾という方がおられましたが、その先生が次のような趣旨のことを書いておられます。「統計力学の考え方は、マクロを見るためには、ミクロを追ってもダメであり、purposefulに(意図的に)ミクロの詳細を大胆に無視することである。」私は経済学でもこれが正しいと思っております。関数を最大最小にするときに微分法を使うことはご存じかと思います。何か動学的に変わっていくもの、それに関するある種の最適化、最大最小の手法が変分法と呼ばれるものです。変分法では、定積分の中に入れる被積分関数を取り換えて最大最小を求めます。経済学では消費者や企業について変分法を使って分析しますが、物理学が対象とする無機的な物質を対象にするような統計物理の方法というのは、複雑な経済には当てはまらないだろう、と多くの経済学者は考えています。しかしそれは初歩的な誤解であります。実は無機的な物質の物理的な動きというのは変分法の解になっているのです。先ほどデカルトの話で例に挙げましたが、光が水面に入ると光は屈折します。あれはある種の変分問題の解になるように光が屈折しているのです。それが変分原理とよばれるもので、これは古く18世紀に物理学者たちが発見して、当時の物理学者は「これこそが神の偉大さを示すもの」、つまり神様たちは最大最小問題を解いている、と考えたのです。ですから変分問題の解になっているという点では人間も無機的な物質もon par(同じ)だということなのです。10. マクロ固有の方法論:

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