ファイナンス 2022年9月号 No.682
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(1743)年、京都四条烏丸に仕入店を開き、常総地方に行商する他たこくたなもちきょうあきんど国店持京商人を始めたことに遡る。奈良屋は独立前に奉公した呉服商の屋号である。小売店舗を構えたのは明治42年(1909)。七代目が佐倉店の出張店を横町に開設したのが始まりである。大正3年(1914)、川崎銀行から借地し吾妻町通に面した千葉店を開業。昭和5年(1930)に新築して百貨店業態となった。翌年に株式会社に組織改正するが、このとき本店を京都から千葉に移している。本店に昇格した旧千葉店は空襲で全焼。戦後は昭和21年(1946)に千葉銀座にあった別館の場所に本店を再建した。千葉銀座と駅前新市街の攻防昭和41年(1966)、千葉市の最高路線価地点が「新地場百貨店は奈良屋の他に2つあった。昭和34年(1959)に開店した扇屋百貨店と昭和39年(1964)の田畑百貨店である。扇屋百貨店は中央銀座に、田畑百貨店は千葉銀座の北端にあった。戦後の人口急増期には、地元3店は増床を繰り返しつつしのぎを削っていた。3店の周りには全国チェーンの出店も相次いだ。早いのは昭和26年(1951)の十字屋で、その後昭和39年(1964)に丸井、昭和42年(1967)には緑屋が開店した。町三井銀行千葉支店前千葉駅側通り」に移転した。伏線は戦災復興に絡む市街地開発である。まずは昭和33年(1958)、外房線の本千葉駅が600mほど南に動き県庁近くの現在地に移る。元の本千葉駅の場所には京成千葉駅が来た。現在の千葉中央駅である。昭和38年(1963)には国鉄千葉駅が現在地に移転。元の京成千葉駅の場所は中央公園となった。新生千葉駅と中央公園の間は新市街のシンボルともなる駅前大通りで結ばれた。最高路線価地点の目印の三井銀行千葉支店は駅前大通りの駅前広場に面する場所にあった。今も同じ場所に三井住友銀行がある。昭和40年(1965)には、今の京葉銀行である千葉相互銀行が駅前大通りに新たな本店を新築し本町から移ってきた。昭和42年(1967)、駅前大通りに千葉そごうが開店。翌年増床し店舗面積2万3000m2となる。昭和47年(1972)に別館を増設し地域一番店の地位を固めた。関西を本拠とする都市型百貨店の進出に、千葉銀座界隈の商業界は少なからぬ影響を受けた。まずは昭和43年(1968)、田畑百貨店は伊勢丹の共同仕入れ機構に参加した。ところが昭和46年(1971)火災で店舗が全焼。伊勢丹との提携を解消し西武百貨店から資本を受け入れる。それでも百貨店業態の継続は厳しく昭和51年(1976)に千葉パルコに転換した。扇屋百貨店は昭和46年(1971)に松坂屋と業務提携したものの昭和50年(1975)に解消。百貨店の他に21店あった総合スーパー部門の拡充を目指していたところ、関東進出の足掛かりを探していたジャスコの戦略と一致し合併に至る。昭和51年(1976)に扇屋ジャスコとなった。奈良屋は昭和47年(1972)、三越と新会社を設立し、千葉そごうの隣に新たな百貨店「ニューナラヤ」を立ち上げた。千葉銀座の本店はファッションビルに転換しセントラルプラザとなった。当時の杉本家八代目の郁太郎氏が若かりしころ三越大阪店に修業していた縁があった。千葉そごうに対抗すべく三越提携百貨店をうたっていたが押され気味で、昭和59年(1984)に三越の全面支援を受け入れ千葉三越となった。モノレールの開通とベイエリアの発展駅前の発展は外房線の西側の開発で次の段階に進んだ。千葉市の政令指定都市昇格を翌年に控えた平成3年(1991)、千葉都市モノレールの千葉駅が開業した。2年後の平成5年(1993)にはモノレール計画と一体の新町地区市街地再開発事業の目玉として、店舗面積約6万1000m2の巨艦店「新千葉そごう」が開店。元々の本館と別館、そして前年に先行開業した専門店街(兼駐車場)と合わせ4館体制となった。4館合わせた店舗面積は8万9000m2で当時は全国最大だった。街の構造に影響を与えたもう1つの動きがベイエリア開発である(図3)。戦前の海岸線は千葉街道(国道14号線)をなぞっており、街道から南側に延々と干潟が続いていた。戦後埋め立てが進み、戦前からあった総武本線と並行するかたちで湾岸の埋め立て地に京葉線が走った。昭和61年(1986)に西船橋駅-千葉港駅(現・千葉みなと駅)、平成2年(1990)には東京駅-蘇我駅の全線が開通した。拠点機能のベイエリアへの移転は70年代から見受けられ、例えば千葉市役所が昭和45年(1970)、千葉銀行本店が昭和48年(1973)に、造成し 60 ファイナンス 2022 Sep.

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